2026(令和8)年10月



 
私が『極楽寺だより』に文章を書き始めて、丸二十二年が経ちました(正確には、今年の八月号から二十三年目になります)。年を経る毎に、文章が長くなり(普通は、短くまとまっていくと思うのですが。情けなし…)、読まれる方もさぞご迷惑なことだと思います。でも、悲しいことに止まらないのです。本当に、申し訳ありません。

 とはいえ、よくもここまで続いてきたと、我ながら感心しています。ただ、私の手柄とは思っておりません。「読んでますよ」「楽しみにしています」と声をかけてくださる方、感想を伝えてくださる方々があればこそ。「今回は、難しかった」という声も、また有難い。それらは、読んでいただいているという実感となり、続ける力になりました。謙遜ではなく、ホントに実感しているのです。








そして、『チーム〝極楽寺だより〟』ともいうべきメンバーの存在も、大きかったと思います。
 私は原稿がまとまると、必ず友人にチェックしてもらいます。彼は、京都大学大学院で仏教学を学んだ、まさにエキスパート。彼に褒められると自信になりますし、「ここは、わかりにくい」「もっとこうしたら」という指摘によって文章は磨かれ、「いや、でもここは」というやり取りの中で熟されていくのです。間違いを指摘されることもありますが、これこそ大歓迎。なぜなら、間違ったまま発行するよりも、早い段階で指摘された方がいいじゃないですか。
 ただ、二人だけで完結してしまうと、時にマニアックに、時に難解になっちゃうので、坊守にも読んでもらい二重のチェック!二人の力によって、いや読んでくださる皆さんを含めた『チーム〝極楽寺だより〟』によって、二十三年目を迎えたわけです。
 

 ところが、原稿チェックの作業に対して、驚く人がいるのです。「そこまで、するんですか」と。でも、チェックなしに、そのまま発行する方が恐くないですか。私にはそこまでの自信も、度胸もありません。指摘してもらうからこそ、いいんです!より良いものを創るためには、それくらいの労力は必要ですし、逆に自分のつまらないプライドは要りません。何より、良いものを創ろうとする営みって、楽しいのです。





 

近頃は、「批判」という言葉が、「悪口」や「否定」の意味で使われています。しかし批判の元々の意味は「批評し判断すること」。物事を鵜呑みにせずに、検討する。良い点も悪い点も、客観的に指摘し論じる。そこには、人を責めるという意味はありません。そして、良いものを創るには、様々な角度からの批判が必要なのです。批判があるからこそ、磨かれ、深まっていく。そこには、耳障りに感じることもあるでしょう。しかしそれを、悪口と受け止めるのは、あまりにも勿体ない。

 とはいえ現実には、表向き批判を装いながらも否定する言葉や、自分の価値観を押し付けるだけの意見もありますしね。「これは、批判なのか否定なのか」と、受け取る側も発する側も、吟味する必要がありそうです。


 ともあれ、今の時代は「批判=悪口」のように受け止められているのが実状。そこでこの状況を憂い、私なりの翻訳にチャレンジしてみました。それでは、発表いたしましょう。「批判」の新たな翻訳とは…「何歳(いくつ)になっても、言ってくれる人がいるというのは、有難い」ということです。

 事実、歳を重ね、経験を積む毎に、注意してくれる人が少なくなるのです。そんな私の間違いや浅い受け止めを、批判してくださる方は貴重な存在。「それで良いのか」と言ってくれる人がいることで、ブレーキがかかる。立ち止まり、振り返ることができる。そこで新たな視点に気づかされ、ものの見方が磨かれ、深められていく。その営みは、より良いもの、いやより良い人生を創造するために不可欠だと、二十二年の経験を通して実感しています。

 何より、「私はいつも正しい!」と主張し、耳の痛い指摘は「フェイクニュースだ!」と断じる生き様の醜悪さは、某国の大統領が身をもって示してくださっていますしね。




 



中国の高僧・曇鸞大師は、「不実の功徳」(『往生論註』)という表現をされています。阿弥陀さまのはたらきによる恵み(功徳)は、「真実の功徳」と「不実の功徳」という二つの姿として表われる。真なるあり方を知らされることも功徳であり、虚偽に満ちた私の姿が明らかになることもまた功徳なのだと。それらは、別々のことではありません。進むべき方向が知らされることで、間違った方向に進んでいた私の姿が明らかになる、つまり同じことを二つの側面から表しているのです。

 ところが私たちは、耳の痛いことは聞きたくないし、不備も指摘されたくない。それが本音ではないですか。長い時間と苦労を積み重ねたものであれば、なお更です。褒められるのは、嘘でも嬉しいのに。しかしどんなに積み重ねてきたものであっても、それが間違いと知らされたならば、受け入れざるを得ない。これが「真実」との出遇いということであり、都合の良い面だけを受け入れても、その「功徳」をいただくことにはならないと示されるのです。


 でも、「不実」もまた「功徳」であるというのは、面白くも深い表現だと思いませんか。逆に言えば、不実の姿、虚偽に満ちた深い闇に気づかされたということは、それを照らし出す阿弥陀さまの光に出会っているということ。それはどちらも、尊い恵みなのです。
実は、私が文章について積極的に指摘、批判してもらうのは、この考え方に拠っています。耳の痛いことも、また功徳なのだと。ならば、私を育ててくださった阿弥陀さまや曇鸞大師、いや親鸞聖人や多くの先人たちも、『チーム〝極楽寺だより〟』のメンバーだと言えるのでは、そう言っても失礼に当たらないのでは、などと考えております。


 とはいえ、周りの声に耳を傾けすぎて、オリジナリティーや表現したいことを見失う場合もあったりして。人間って、難しいですね。しかしそんな時、立ち止まり、進むべき方向を確認することで、また間違った方向に進む私の姿が明らかになるのでしょう。独りよがりにならぬよう、周りに流されぬよう、行ったり来たりすることで、ものの見方が磨かれ、深められていく。それは私の人生を、より味わい深いものにしていく営みでもあるのだと、教えられています。■