2026(令和8)年5月



 
皆さんは、でこぼこ道を歩いておられますか?近頃は、ほとんどの道が舗装され、平坦なものになりました。おかげで快適になり、早く移動できるようにもなりました。
ただ、でこぼこ道を歩くことで、得られる効果もあるのだそうです。滑りやすい場所や転びそうな場所では、足をいろんな方向に動かすため、自然と日頃使わない筋肉を使うことになる。自然と体幹もしっかりし、バランスが良くなる。しかも悩に刺激を与え、頭がスッキリするのだとか。
 やはり、身体のいろんな部分に刺激を与えることは、大切なのですね。ならば、便利さや快適さに偏り、不便や不快を無駄なものと切り捨ててしまうことで、生まれる歪みもあるのでしょう。そしてそれは、人生においても同様です。失敗や挫折、痛みや悲しみを通してこそ、得られる気づきや学びがある。様々な体験によって育てられ、それが豊かさや深みを生むのだと思います。

 ところでここだけの話なのですが、実は私、坊守ととても仲が良いのです。元々、夫婦仲は悪くはなかったのですが、次男の病気を始め、様々なでこぼこ道を共に歩いてきたことで、より深いものになりました。おまけに今は、私の病気もありますし。

 ある方が、「苦労は力に、悩みは知恵に、悲しみは優しさになります」と言われていましたが、本当にその通りだと実感します。苦労を通すからこそ、歩む力が育てられる。悩みを通して、新たな気づきや学びが生まれてくる。悲しみを経験することで、つらい立場の人の気持ちがわかり、思いやる優しさが育まれる。そんな体験を共に過ごすことで、関係は深まっていく。でこぼこ道を歩むからこそ、人生はより豊かなものになると実感しています。








 ちなみに、親鸞聖人の妻である恵信尼さまは、聖人のことを観音菩薩の化身だと仰がれていたと、お手紙(『恵信尼文書』)に遺されています。そして親鸞聖人もまた、恵信尼さまを観音菩薩の化身と仰がれていたのではないかと思われます。こんな夫婦関係、なかなかありませんよね。仲が良いと自称する私たちでも、ここまで尊敬し合う関係かと言われると、さすがに…。

 それは親鸞聖人の苦悩の歩みが、悲しみの深さが、そして求める道の尊さが、恵信尼さまにそう感じさせたのではないかと、私は思うのです。これまでの仏教の枠組みを大きく見直し、すべてのいのちが等しく救われていく世界を求められた歩み。「いしかはらつぶて(石ころ、瓦礫)」(『唯信鈔文意』)のように、あっても無きに等しい者として扱われた人々と、共に生きた道のり。それはでこぼこ道どころか、険しく困難なものでした。時には泥にまみれ、苦悩し挫折しながらも、歩み続けられたその尊さが、恵信尼さまには観音菩薩のように感じられたのでしょう。
 そして親鸞聖人にとっても、その苦難の道のりを共にし、支えてくださった恵信尼さまが、観音菩薩のように感じられた。やはり、苦難をくぐり抜けた関係は、より深く強いものとなるのです。


 それは、夫婦関係に限りません。ツラい時、落ち込んだ時に、寄り添ってくれる人は、やはり特別な存在です。いや、本当に大切な人とは、失敗や挫折、痛みや悲しみを抱えた時にこそ、明らかになるのでしょう。アリストテレスの名言、「不幸のときにこそ、真の友が明らかになる」(『ニコマコス倫理学』)そのままに。
 ならば、苦難もまた、人生において大切な時間だと言えます。


 ※ もう一つ付け加えると、親鸞聖人は、一番ツラい私、苦しむ私、弱った私が救われる道を求められたのです。それが阿弥陀さまの世界、お念仏の道でした。光から一番遠いところに自分の身を置いて、それでも阿弥陀さまの救いの光は至り届いているという実感が、「この道ならば、誰もが共に救われる」という確信へとつながっているのです。



 


 以前、高速道路のパーキングエリアで、恐ろしい光景を目の当たりにしました。
 それは、トイレの個室に入ろうとした時のこと。異様な臭いがしたかと思うと、目の前には流されないままのアレとトイレットペーパーの残骸がありました。思わず後ずさりし、いくつか離れた違う個室に入ろうとすると、何とまたその個室にも、同様のものが。あまりのショッキングな光景に、流すことさえできませんでした。何とか、離れた別の個室に入れて当初の目的は果たせましたが、あの光景は、しばらく頭から離れませんでした。

 どうして、こんなことが起こるのか。近頃のトイレは、立ち上がると自動で流れる機能がついているものが多く、その便利さに慣れると、「流す」という行為を忘れてしまうのでしょう。いやその行為への意志そのものが、衰えてしまうのかもしれません。快適で便利な生活が、他者に不快な思い(それも極めて不快な!)をさせて、それに気づくこともない人間を育てていく。これは本当に、本当に恐ろしいことだと思いました。


 昔に比べて私たちの生活は、便利で快適になっています。そして、コスパ(安く)タイパ(早く)を最優先にすべきものと考える人も増え、苦難やでこぼこ道を無駄なものとして切り捨てる意識も強くなりました。

 でも、そうして人生は豊かになりましたか。深く味わう力が衰えてはいませんか。他者の姿は見えていますか。共に生きる人さえも、効率や快適さを基準に選別しているのではないですか。亡き人を思う葬儀や法事も、支え合う人間関係も、遠回りする経験も、すべて無駄だと切り捨てたその先に、何があるのでしょう。それはもしかして、自分の人生そのものを、無駄なものとして扱う生き方なのかもしれません。

 快適で便利でスピード感ばかりを求める環境が、どんな人間を育てるのか。足を止めて、考える必要がありそうです。転んだり、立ち止まったり、回り道することで、開かれる世界があることも。でこぼこ道を歩むからこそ、育てられることがある豊かさを、私たち夫婦はお薦めしているのです。■