2026(令和8)年7月


 
今月の言葉は、レゲエの神様とも称される、ボブ・マーリーの言葉です。彼は、白人の父と黒人の母の間に生まれ、両方の人種から差別を受けました。その体験から、音楽を通して差別、搾取、不平等に反対の声をあげ続けたジャマイカのミュージシャンです。彼の代表的な楽曲『ONE LOVE』は、誰もが一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。


 お笑い芸人のオードリー若林さんが、以前テレビで、こんなエピソードを話されていました。
 地方のホテルに宿泊した時のこと。ホテルから国道を挟んだ目の前に、コンビニがありました。車はほとんど通っていません。若林さんは、そのまま国道を渡ってコンビニに行こうとしましたが、「もし、(横断歩道のない)国道を渡っているところを動画に撮られて、批難されたら…」と思い直し、200メートル先の信号まで遠回りしてコンビニへ。
 往復800メートルの道を歩きながら「オレは、こんな(ほとんど車の通らない)国道も渡れないのか」と、生きづらい今の環境に泣きそうになったことを語られていたのです。
(『あちこちオードリー』テレビ東京系列)





 近頃は、社会全体が清潔で、健康的で、道徳的であることを強く求める風潮になりました。これを評論家の岡田斗司夫さんは「ホワイト社会」と定義されています。芸能人の不祥事に対する異常なほどの厳しい目線も、ホワイト社会化の一つだと言えるでしょう。
 そこに、スマートフォンやSNSの普及により、動画に撮られ拡散されるようになったことで、「いつ、どこで、誰が、告発するかわからない」と怯える社会になりました。芸能人や有名人は、特にそうでしょう。まさに、監視社会!大らかさのない生きづらい社会に、今私たちは生きている。泣きたくなる若林さんの気持ち、理解できます。

 また、評論家の與那覇潤さんは、「社会のデオドラント化」が進んでいると指摘しておられます。
「ネガティブなものは、そもそもこの世に存在しないで欲しい。少しでも臭ったらスプレーをかけるように『除菌』しようとする傾向が強まりました。同じ時期に普及したSNSは典型です。気に入らない言動や表現を見たとき、『みんなで叩いて、世の中から消してしまおう』と煽る人が増えました」
(「除菌志向」進む日本 「無敵の人」を「無敵」でなくすのは相互接触 2024年1月24日、朝日新聞)と。


 私は不潔よりも、清潔な方が好きです。くさいのは嫌だし、健康的で道徳的な生き方も良いと思います。
 しかし、行き過ぎるのは如何なものでしょう。なぜなら、私も不潔で、くさい部分を抱えていて、いつも清らかで、正しくは生きられないから。そんな私は「ホワイト社会」や「デオドラント化した社会」が進むと、居場所がなくなってしまいます。
 それは私だけではなくて、声をあげ、人を叩く側の人たちとっても、生きづらい社会なのではないでしょうか。




 


 真宗僧侶の松本梶丸先生は、小学校二年生の息子さんの日記を読み、感銘を受けたそうです。その日記には、こう書かれていました。
「今日、お昼を食べたあと、よっちゃんと遊ぶ約束をしました。いつまで待ってもこないので、よびにいったら、どこかへ遊びに行っていませんでした。僕もときどき約束を忘れることがあります」。

 松本先生は、約束を破った相手を責めず「僕も」と受けとめたことがうれしくて、「わが子ながら頭が下がった」と。
 さらに一文に傍線を入れ、「私も、ときどき約束を忘れることがあります」と記してくださった先生のこころにも深い感動を覚えたそうです。
 そして「ここに、教育の原点があるのではないだろうか。教える先生も教えられる子どもと同じように約束も破り、嘘もつくという傷みにたってこそ、共に学んでいくという世界が開けていくのであろう。学校にも、家庭にも、この〝も〟の一字が見つかっていないのではなかろうか」
(『歎異抄に学ぶ』)とも言われています。

 失敗や間違いを犯した時、厳しく指摘されるのは仕方がないことです。しかしそこで、「僕も」と言われると、ホッとしませんか。
 してしまったことは、厳しく問われなくてはならない。けれども、〝も〟と自分をふり返りながら指摘する人の言葉と、そうでない人の言葉は、まったく違います。自分をふり返らずに発する言葉は、冷たいのです。冷酷と言っても良いかもしれません。でも、〝も〟を意識しながらの言葉は、厳しくも温かいのです。

 実は松本先生には、〝も〟の大切さを教えてくださったご門徒の方がありました。その方は、長年聴聞してこられた山越初枝さんというおばあちゃんでした。

 『歎異抄』という書物の第九条に、著者唯円が親鸞聖人に「私は、お念仏を申しても喜ぶ心が起きませんが、どうすればよいのでしょうか」と質問をするシーンが描かれています。なかなかの質問ですよね。普通そんな質問をしても「お前が未熟だからだ」と一刀両断に切り捨てられて終わりです。
 ところが親鸞聖人は「私も同じ悩みを持っていた」と共感されるのです。そして「喜べない私を目当てにして、阿弥陀さまは本願を立てられたのだ。ならばますますこの他力の悲願は、私たちのためのものだと頼もしく思えるではないか」と仰っているのです。

 山越さんはこれを受けて、「人間の目から見りゃ、〝が〟という世界しか見えんけど、仏さまの眼いただくと、〝も〟という世界いただけるがや。〝が〟と〝も〟、一字ちがいやけど、その意味あいというもんな、ものすごく違うもんや。〝も〟といただいたときゃ、心の世界やね。人間が生きる死ぬというこた、これひとつやと思うね」と言われていたそうです。


 私たちは、〝も〟という世界を忘れているのではないでしょうか。そして大らかさを無くし、生きづらい社会を作っているのでは。
 〝が〟の世界が人を殺し、〝も〟の世界が人を生かしていく。そのことを教えてくださった方の歩みを、今こそいただいていきたいものです。■