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| 2026(令和8)年8月 | |||
今月の言葉は、広島の原爆詩人・栗原貞子さんが、被爆の惨禍や戦争の悲劇を繰り返さぬよう警告した、詩の一節です。原爆投下を「あやまち」と表現し、再び戦争に加担する行為を強く戒める言葉として、平和活動などで繰り返し引用されています。 しかし悲しいことに、本当に悲しいことに、被爆の惨禍や悲劇に対して「あやまち」という認識を、どれほどの人が持っているのだろうか。そんなことを、思ってしまうのです。 「広島・長崎への原爆投下は日本の降伏を早めた。原爆を使用しなかった場合よりも、犠牲者が少なくて済んだ」、これが原爆投下国のアメリカ政府の公式見解として広く採用されているものです。「あやまち」ではなく、良い判断だったと。米世論の過半数も、未だこの考え方に同調的なのだそうです。 百歩、いや千歩譲って、計算上ではそうなのかもしれません。しかし、人間は単なる数字ではありません。広島での原爆による死者数は、約14万人とも言われており(即死だけでなく、放射線障害によって数週間〜数ヶ月後に亡くなった人が多く含まれている。また正確な数は、未だ特定されていない)、その数字だけでも驚きますが、そこにはそれぞれの人生があったのです。一人ひとりの日々の営みが、喜びや悲しみが。その重さは、14万という数字だけで表すことはできないのです。
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| 真宗大谷派の僧侶で九州大谷短期大学名誉教授の宮城顗先生は、ある時友人から「今の学校教育には、対策はあるけれども悲しみがない」と言われ、ハッとしたそうです。 学校では、様々な問題が起こる。そして、対策がいろいろと議論される。もちろん、問題を起こした学生に対して、厳しい態度で接していかねばならない。しかしそれが、いとも簡単に「休学だ、退学だ」と処分され、切り捨てにつながっていく。もちろん毅然とした態度は必要だが、その人に向き合い、切り捨てざるを得ない事実を深く悲しむということがなかったら、それは単なる学校経営の問題でしかなくなってしまう。人がそこに存在しているという事実を、見失ってしまうと指摘されたのだそうです。 宮城先生は、この「悲しみがない」という指摘に対し、「仏の大悲心」について味わっておられます。阿弥陀さまは、どんな私をも見捨てず、救い取ってくださる仏さま。けれども、何をしてもいいと言われているわけではない。無明の中に流転している私たちのあり方に、深い悲しみを持たれている。だからといって、愚かなことを繰り返す私を、決して見放しはしない。つまり、あり方を悲しみながらも、その存在は捨てない。そんな心が「仏の大悲心」なのだと。 ただし、私たちは仏さまではありませんから、対策を優先し、切り捨てざるをえないこともあります。しかし、安易に割り切ってしまうと、そこに存在している一人の人間が見失われていく。次第に麻痺していき、いつしか人間を単なる数字のように扱い始めてしまう。そんな姿を、阿弥陀さまは悲しんでおられるのではないのか。阿弥陀さまの悲しみの心を通して、自分自身を見つめることがなかったら、麻痺していることにも気づけないのではないか。ご友人の言葉を通して、宮城先生はご自身を問い直されたのです。 ならば、「原爆投下は日本の降伏を早めるためには、仕方がなかった」というのも、対策でしかないのでしょう。そこに、悲しみがない。落とされた下に生きていた人々の存在は見失われ、数字にしか認識されていないのです。 『涅槃経』というお経に「無慚愧は名づけて人とせず(慚愧のない者は人とは呼ばない) 」という言葉があります。親鸞聖人も大切に引用されている言葉で、本当に重要な指摘だと思います。悲しみを見失った者は、他者を単なる数字のように軽々しく扱い始める。それはまさに、自分自身の人間性を失う行為でもあるのでしょう。 |
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