2026(令和8)年9月


 
今月の言葉は、伝説的なアニメ『機動戦士ガンダム』(1979年放送)のラストシーンで、主人公のアムロ・レイが語った言葉です。すべてを失ったと思っていたアムロは、自分を待っている人がいること、帰れる場所があったことに気づき、「こんなにうれしいことはない」と生きていく力を取り戻します。帰る場所があることが、人間が生きていく上で、いかに重要かを象徴している場面です。



 真宗僧侶の山本仏骨先生が、このようなお話を紹介しておられます。

 明治時代に仏教界の大立者といわれた永平寺の森田悟由禅師は、幼くして父に死に別れ、母の手ひとつで育てられました。そして十三の年に母のもとを離れ、修行の旅に出ることになります。母もこのひとり子と離れることが、たまらぬほど悲しい。けれども、気丈に送り出されます。禅師が「一生懸命に修行をして、偉い人になって帰ってきます」と挨拶をして出かけると、その後ろから母の声が聞こえました。

「偉い人になったら、帰らなくてもいい。どこででも暮らすが良い。でも、もし病気になるか、人に憎まれて、おるところがなくなったら帰りなさい。お母さんは、いつまでも待っていますよ」と。その一言に支えられ、禅師は立派な仕事を成し遂げられたのだそうです。

 山本仏骨先生は、こうも言われます。「理外の理(普通の理屈や常識では説明できない道理)」という言葉がある。それは親心のことである。親心は、普通の理屈で理解することはできない。けれども、理屈を超えたまことの道理があり、それこそが真に人生を生かす力となっていくのだと。
(『人生の眼と足』昭和42年発行)

 考えてみれば、現代社会は「合理的」「利己的」なるものを普通の理とし、至上の価値としてきました。それが家庭にも深く浸透することで、親子関係も「合理的」「利己的」に考えてはいないでしょうか。子どもにかかるお金を、コスト(サービスに発生する費用・犠牲・代償)と言ってはいませんか。親の利害で、「良い子」「悪い子」の条件を突きつけてはいませんか。子どもを所有物のように、コントロールしようとしているのかも。
 書き連ねる度に、自分の子育てをふり返り、申し訳なさが募るばかりです。






「合理的な考えによれば、人は適度の栄養と世話さえあれば、元気に生きていけるはず。その考えには、致命的な誤算があった」

 こう指摘されるのは、精神科医の岡田尊司先生です。今や経済的豊かさを追求する合理主義や、個人の利益を優先する利己主義が、世界中に広がっている。その代償として、親や特別な存在との絆(愛着という仕組み)が失われつつある。

 しかし実は、その絆によって私たちは安心だけではなく、発達や生存を支えられていた。それがうまく働かないと、自分には愛される資格も、生きる資格もないと思うようになり、精神的にも身体的にも生きる力が奪われていく(愛着障害)。逆に、愛されている、居場所があると安心感を得ることで、人は自分に存在価値を感じ、生きる力が生まれてくるのだと
(『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』)。

 まさに山本仏骨先生が言われるところの「理外の理」、無条件の受容の重要性に通じます。そして岡田先生は、こうも言われるのです。
 「家族の絆を安定させ、虐待やネグレクトを防ぐ上で、大きな役割を果たしていたと考えられるのが、宗教やそれと深く結びついた社会の倫理観だった。/親のいない子、親に愛されない子にも、等しく神や仏の愛が注がれるという信仰は、欠落を補う強力な装置であった」
(『死に至る病 あなたを蝕む愛着障害の脅威』)

 山本先生も、同様の指摘をしておられます。
「現代人は、宗教を捨てました。そのかわり、彼らは帰るところを失いました。そして遮二無二進む競争に駆り立てられているのですが、そこには本当の安定もなく、心のふるさともないから、いたずらに苛立ち、呪い合い、偽り合って、わめきたてねばならないのです」
(『人生の眼と足』)

 私たちは「合理的」「利己的」なものを追い求めてきました。しかしそれだけでは、満たされないのです。事実、支えられる世界、帰るところを見失った歪みは、様々な形の生きづらさとして表れています。今こそ、真に人生を生かす力とは何かを、見つめ直すべきではないでしょうか。





 


 『Youは何しに日本へ?』(テレビ東京系列)という番組があります。日本の空港に居合わせた外国人に、「Youは何しに日本へ?」と問いかけ、気になる人に密着取材をするバラエティーです。

 その番組で、あるフランス人男性にインタビューした回がありました。日本人の女性と結婚し、日本に住んでいる彼は、トルコで植毛手術をして帰ってきたところでした。トルコは植毛先進国として知られ、高い技術を持つ医師も多く、日本よりも格安なのだとか。

 番組スタッフは彼のその後が気になり、十か月後会いに行きました。するとすっかり、フサフサの姿に!彼は長年、髪の毛の薄さにコンプレックスを感じていて、思い切って植毛手術を受けたのです。今やフサフサになった彼は、「家族も喜んでくれるよ!」とハイテンションで話していました。

 でも、私は思ったのです。彼の奥さんは、髪の毛の少ない彼と結婚したのですよね。ならば、髪が薄いことにこだわっているのは、実は彼だけなのではないか。子どもたちも、髪が生えたことを喜んでいるのではなく、髪が生えて喜んでいるお父さんを見て、喜んでいるのでは。髪が生えようが生えまいが、家族にとっては大切なお父さん。でも、そのことに気づいていないのは、彼だけではないのかと。

 現代社会に生きる私たちは、たとえ無条件に受け入れられた場所にいても、条件や資格が必要だと思い込み、コンプレックスや生きづらさを感じているのではないですか。そう受け止めてしまうのは、条件や資格で物事を判断すること、「合理的」「利己的」な理屈で考えることが、私たちに深く染みついているからでは。そして、その理屈こそ至上であり、すべてだという考えが、実は私たちの生きる力を奪っているのではないでしょうか。


 親鸞聖人は、私たちは阿弥陀さまのはたらきによって、お浄土に生まれ、仏さまに成らせていただくのだと教えてくださいました。そのお浄土は「俱会一処」、先に往かれた方とまた会える場所、「お帰り」と待っていてくださる場所であり、そしてその世界はいつでも誰にでも開かれているのだと。
 「合理的」「利己的」な理屈で考えると、うなずける話ではないのかもしれません。しかし、そんな理屈では理解できない「理外の理」こそが、真に人生を生かす力ではなかったか。そんなことを考えさせられるのです。

 条件や資格に捉われ、帰る場所を見失っている私たちに、呼びかけられる声がある。「ここに、あなたが帰る世界がある」「無条件に、あなたを受け入れる場所がある」と。その呼び声を、「南無阿弥陀仏」と言います。■