2011(平成23)年 11   


今月の言葉を読んで、「えっ?」と思われた方はありませんか。「善人になるのは努力しなくてはならないけれど、悪いことなんて簡単にできる」と思われるかもしれません。しかし、今の世の中善人だらけと言った方が良いのではないでしょうか。テレビを見るとニュースやワイドショーでは、善人のコメンテーターがいつも誰かを悪者にして裁き、政治討論会では「俺が正しい」「お前は間違っている」と善人同士がののしり合っています。と言っている私が、一番善人面しているのかもしれませんが。自分の愚かさ、弱さを受け止めることは、なかなか難しいようです。おかげで、「アイツのせいで、俺はこんなに嫌な思いをしている」といった被害者意識ばかり強い、攻撃的で殺伐とした人間関係が広がっているような気がします。

  宮城 という先生から、こんな話を教えられました。

  隣り合ったABという家がありました。A家では、いつも喧嘩ばかり。B家は、仲良く暮らしています。A家のおばあちゃんがたずねました。「どうして、仲良く暮らせるの?」B家のおばあちゃんは、こう答えたそうです。「あなたの家は、善人ばかりだからよ」。何かにつまづいても、「誰だ!こんなところに荷物を置いた奴は!」「気をつけない、あなたが悪いんじゃないの!」と、自らが正義となって相手を攻撃していく。だから喧嘩ばかり。「でも、うちは悪人ばかりだからね。」何かにつまづいても、「大丈夫?ごめんね、こんなところに荷物を置いて。」「いやいや、気をつけなかった僕が悪いんだよ。」と言えるから、喧嘩はないのだと。

  自らを深く振り返り、弱さ・愚かさを受け止めることは、心豊かな生き方を生み出すのですね・・・などと思っていたら、とんでもない。実は、宮城先生の話には続きがありました。

  人間って、そう簡単に悪人になりきれるのでしょうか。「自分が悪かった」と口では言いながら、「オレが退いてやっているから、家の中がうまくいく」「私が悪者になったお陰で」と、いつしか自分を立て、善人面をし、人を見下しはじめるのが私たち人間ではないでしょうか。そんな思いに陥ってしまったら、ちょっとしたきっかけで爆発しかねません。その方が、傷はもっと深いでしょう、と。

  宮城先生は、念仏者の家とはAでもBでもなく、「聞く」家なのだと教えて下さいました。常に常に、照らし出して下さる阿弥陀如来の光に自らの在り方を聞いていく。お念仏の響きに、自分の生き方を相談していく。失敗だらけ、間違いだらけの人生ではありますが、そんな「聞く」生活の中でこそ、素直に謝ることも、反省することもできる。本当の人間らしさの中での、本当の豊かな出遇いとは、そんな営みの中から開かれていくのだと。

  善人面して生きていくことは、簡単です。自らの在り方をふり返りながら、弱さ・愚かさを受け止めて生きていくことは、本当に難しいことです。そんな時、お仏壇の前で手を合わせ、自分の姿をふり返る時間を持ってはどうでしょう。阿弥陀様の光は、私を照らし出して下さいます。そこは、素直に頭を下げることができる場所です。生きる上においてそんな場所があるということが、実は本当に素晴らしいことなのではないでしょうか。