2012(平成24)年10   


政治討論番組が嫌いになりました。最初は面白く見ていたのですが、しばらくすると単なるなじり合いにしか聞こえなくなり、心が殺伐としてくるのです。政治家や官僚の人たちだけではありません。マスコミの方や様々な分野のコメンテーターの方々。皆さん優秀な方ですし、偉い人ばかりです。でも、どうしてこんなに賢い人や偉い人が多いのに、心豊かな方向に、建設的な方向に進まないのでしょう。
 最近の報道を見ると、ミスがあれば責任をなすりつけあって、責任を押しつけられたものが周りからの集中砲火を浴びる。まさに「いじめの構図」が繰り広げられています。それは私たちの生活の中にまで及び、気がつけば、誰も責任を取りたがらない世の中になりました。間違いを認めると、責任追及がうるさい。だからみんな嘘をつき、屁理屈でごまかしても、自分の非を認めない。責任論を語るほど、無責任な世の中が広がっていく。心も殺伐とするはずです。


「俺は責任取らないよ。失敗したらお前の責任だぞ」って突き放すと、言われた方は怯えて手元が狂ってしまう。逆に、「失敗しても構わないから好きにやりなさい。後のことは引き受けた」と言ってあげれば、リラックスできるから仕事の精度が上がる。/

 責任というのは、お互いに押し付けあうんじゃなくて、取り合うものなんです。そういう集団においては、誰かが責任をとらなければならない問題そのものが起きないんです。


 思想家の内田樹先生は、こう指摘されます。間違いを認めず、責任を押しつけ、いつも正しい場所に身を置くことで、私たちは殺伐とした嫌な世の中で、いついじめの矛先が向けられるのかとビクビクする生き方を選びとってしまったのではないでしょうか。



 唐代の詩人白楽天が、道林和尚という禅僧に「仏法とは、どのような教えなのか」と問うたところ、「諸悪莫作・衆善奉行」(悪いことをするな、善いことをせよ)と答えました。白楽天が「そんなことは、三歳の子どもでも知っている」と返すと、道林和尚は「三歳の子どもでも知っているが、八十の老人になっても、実行することは難しい」と応じた話が伝えられています。
 正しさを求めることは大切です。しかし、人間は正しさだけでは生きられません。そんなごく当たり前なことを忘れてはいないでしょうか。

私は弱い存在だと知るからこそ、助け合い、支え合いの大切さを知るのでしょう。

私は間違う存在だと気づくからこそ、相手にも寛容になれるのです。

私は無智であるという自覚があるからこそ、違う意見を尊重していけるのです。

そこにこそ、「お互いさま」や「ありがとう」「恵みをいただく」「生かされている」といった、心豊かな言葉も生まれてくるのでしょう。


 弱さや愚かさを、逃げ道にしてはいけません。しかし、弱さや愚かさと向き合うことは、卑屈になることではありません。向き合うことから広がる豊かな世界があるのです。親鸞聖人は人間の弱さや愚かさを通して、この私を包み支えて下さる世界と出遇われたのです。私たちは、「間違わない」人が賢い人、偉い人だと思っているのかもしれません。そのことが、殺伐とした生きづらい世の中を作り出してしまったのではないでしょうか。こんな時代だからこそ聖人の生きざまを通して、自らの歩みを見つめ直すことが、求められているように思えてなりません。