2012(平成24)年   

「物は考えよう」という言葉があります。『広辞苑』を調べると、「物事は考え方ひとつで、よくも悪くも解釈できるものだ」とあります。確かに、考え方、受け止め方ひとつで、ものの見方は変わり、世界が変わります。しかし、その場しのぎの、自分に都合の良い解釈になってしまうと、責任逃れや現実逃避になってしまいます。それでは、大切なことを見失いかねません。だからこそ私たちの先輩方は、阿弥陀様を人生のよりどころとして、阿弥陀様と相談しながら生きていかれたのです。

 

ある小学校に、「うちの子どもは給食費を払っているのに、なぜ「いただきます」を言わなくてはならないのか」というクレームが来たそうです。「給食費を払っているから、サービスを受ける権利がある」からとのこと。世の中、お金だけでしか見ることができない人は、お金さえ払えば、食おうが、食べようが、捨てようが、何とも思わないし、その権利があると言うのでしょうか。

同じようなクレームに、「授業料を払っているんだから、授業を受けるのは当たり前。だから、先生に頭を下げる必要はない。」というものがあるようです。しかし、街のカルチャースクールでお茶やお華を習う時でも、「俺は金を払ったから、ちゃんと教えろ」などという態度をする人など、まずいません。教えていただくときには、師に敬意を払うのは当たり前。食事のときも同様です。お金だけで物事を考えるのは、人間の傲慢さゆえのこと。大自然の前では、そんなものがいかに小さなことなのかを、私たちは大震災を通して知らされたはずではなかったでしょうか。

 

 いただいた恵みに敬意を払う謙虚な生き方は、大きないのちのつながりへの出遇いを開きます。その感動は、自分の都合ばかりを振り回す解釈では、育てることはできません。私たちの先輩方は、阿弥陀様の心をより所とする中で、その尊さに気づいていかれたのです。■