2012(平成24)年 8   

最近、悲惨な自動車事故が増えています。よそ見をしながらの運転や、居眠り運転。飲酒運転もありますし、中には脱法ハーブなる幻覚症状を起こすものを服用しての事故もありました。しかも、それが登校中の子どもたちの列に突っ込んだり、歩道に突っ込んだりと、本当に怖ろしい事故につながっています。
 しかし考えてみると、これらの事故は、オートマティック車が普及してからますます増えているような気がします。厳密に調べたわけではありませんから断言はできませんが、面倒くさくて技術の必要なミッション車ではなく、誰でも気軽に、簡単に運転できるオートマティック車が普及したということは、同時に居眠りしながらでも、脱法ハーブを吸いながらでも、気軽に、簡単に、スピードが出せるようになったとも言えるのではないでしょうか。アクセルとブレーキを踏み間違えて起きた大きな事故のニュースも伝えられています。これも、便利さの副作用と言えるでしょう。
  確かに、これらの問題に対して、「酒気を感じるとエンジンがかからない」システムや、「前を行く歩行者や障害物を感知して、自動でブレーキがかかる」といった運転支援システムが開発されています。そうして副作用を克服していくことが、人類の進歩だと言われる方もあるでしょう。しかし、肝心の人間そのものの成長や成熟というものが見失われているならば、科学が進歩するほどその副作用は、ますます大きなものになるはずです。技術を扱う側の問題を、置き去りにはできません。
  これは、他人事ではないのです。私も、その便利さ、快適さの恩恵を受けているのですから、一歩間違えれば大きな事故と背中合わせにいるのです。そうは言いながら、わかっている「ツモリ」で、平然と暮らしているのかもしれません。やはり自分を見つめる場が、必要なようです。
  親鸞聖人は、常に阿弥陀様の智慧と慈悲の光に照らされながら、自分を見つめ、愚かさや限界と向き合いながら、人生を歩まれました。わかっている「ツモリ」で生きてしまう身であるからこそ、常に、常に、阿弥陀様と共に、お念仏と共に歩まれたのでしょう。その歩みこそが、七五〇年以上の歴史を通して慕われる、深くて豊かな人間性を生み出したのではなかろうか。そう思うのです。


「想定外でした」では済まされないほどの大きな副作用を抱えた力にも関わらず、そして、ふるさとを、思い出を、住む場所を、人生を奪う大きな副作用を生み出したにも関わらず、いまだに「原子力は、コントロールできる」という思いが、この国の政界・経済界のリーダーにはあるようです。確かに、目の前の生活から目を背けるわけにはいきませんが、これだけの副作用に目をつぶるわけにもいきません。「真摯に取り組んでいます」という言葉が虚しく響くほど、政治家や企業への信頼も失われています。
  今こそ、人間の愚かさや限界を照らし出す世界と出遇うことが、本当に求められていると思うのです。