2013(平成25)年9月   




今月の言葉を見て、私が最初に思い出したのは、『西遊記』の孫悟空とお釈迦様のお話です。

乱暴狼藉をはたらく孫悟空に、お釈迦様は言われます。「私の手のひらから飛び出すことができれば、お前の望む通りにしてあげよう。」悟空は「バカにするな!」と筋斗雲に飛び乗り、世界の端を目指します。ここまで来たら大丈夫だろうと思ったその先に、雲の間から立っている五本の柱が見えてきました。「これが世界の行き止まりだな。」来た証拠にと柱に名前を書き、お釈迦様のもとへ帰ってきた悟空。しかしお釈迦様の指を見ると、悟空の名前が書いてありました。結局悟空は、手のひらの上で飛び回っていただけだったというお話です。

こう聞くと、「み手の上」とは「手のひらの上で、もてあそばれている」という悪いイメージにつながってしまうのかもしれません。私たちは、手のひらから飛び出すことが「自由」であり、「自立」であると思っているのではないでしょうか。自分の力だけで立つことを、誰に依存することなく生きることを「自立」といい、誰の干渉も受けずに、自分の思いだけで生きることを「自由」だと。


 








しかし、臨床心理学者の河合隼雄さんは、自立ということを依存と反対である、と単純に考え、依存をなくしていくことによって自立を達成しようとするのは間違ったやり方である。」と言われています。

そもそも人間は誰かに依存せずに生きていくことなどできないのだ。自立ということは、依存を排除することではなく、必要な依存を受け入れ、自分がどれだけ依存しているかを自覚し、感謝していることではなかろうか。依存を排して自立を急ぐ人は、自立ではなく孤立になってしまう。『こころの処方箋』河合隼雄

確かに自分の力で立っていると思っていても、支えて下さる大地がなければ、立つことなど決してできないのです。

 このあたりのことがよくわかっていなかった頃、河合先生はヨーロッパに行って驚いたそうです。ヨーロッパの人たちは自立的だから、親子関係は日本よりはるかに薄いだろうと思いきや、電話をしたり、贈物をしたり、食事をしたりと、頻繁に親子が交流していたというのです。つまり、支えて下さる場があるからこそ立てるのだということをよく理解していて、だからこそその場を大切にしていたのです。それを忘れ、自分を縛りつけるもののように扱う時、悟空のように傲慢になり、孤立していくのでしょう。

 考えて見れば、近頃使われる「自由」という言葉もその中身は、欲望に縛りつけられ、振り回されているにすぎないことがほとんどではないでしょうか。自分の欲望に縛られていることに気づくこともなく、逆に、支えて下さる世界を縛りつけるものにしか見ることができない有り方は、地に足のつかない孤立の姿でしかありません。私を包んで下さる手のぬくもりを知らない姿は、「自立」でも「自由」でもないのです。

 


 



「南無阿弥陀仏」と称える念仏は、私の声ではありますが、阿弥陀様からの呼び声だと受け止めなさいと教えられます。お念仏を称えるときに、いつも呼びかけられている私であることに気づかされていく。支えられ、願われている私であることに気づかされていく。「南無阿弥陀仏」と称える時に、阿弥陀様の手の上に包まれていることを知らされる。そのとき、自分の力だけで生きているという傲慢さや勘違いも知らされていくのでしょう。

私を常に願って下さる世界に気づく時、私たちは初めて、地に足がついた生き方に目覚めることができるのではないでしょうか。それは、ぬくもりのある、心豊かな歩みだと、先を歩む方々の後ろ姿が伝えて下さるのです。■