2014(平成26)年11月   





近頃は、お金と時間さえあれば、いろんな楽しみを得ることができる時代になりました。ところが悲しいことに人間は、どんな楽しみでもそれに慣れると「当り前」と感じ、退屈してしまうのです。

 「もっと楽しく」「もっと面白いものを」「もっと刺激的なものを」と求めていく先に、限りはありません。それどころか、どれだけのことをしてもらっても、それを「当り前」と感じている間は、喜びも感動も生まれるはずはありませんし、満たされることなど決してありません。


 ある週刊誌に、こんな話が載っていました。近頃は、お店の失敗について過剰に文句をいう「モンスター消費者」が増えているようです。「お客様は神様」といった誤解された考え方の下、消費者意識の高まりと、自らの言い分を発信できるITメディアを持つ時代となったことで、「過剰クレーム」がつけやすくなっているのだとか。

 この「モンスター消費者」が集まりやすい店というものがあるというのです。それは価格競争が進む中で、値段を安くし、社員を酷使し、割引クーポンをつけるなど、身を削ってサービスをする店ほど、集まるのだとか。なぜなら、店側が精一杯行った低価格と高いサービスを当り前と考えて、そこからなお過剰なサービスを求めるからだそうなのです。

 本当に、切ない話です。人間の「当たり前」は、どんどんエスカレートし、過剰なサービスを求めていく。それが巡り巡って自分の職場にも求められていく。息が詰まるような世の中が広がるはずです。


 『正信偈』の最初に、阿弥陀如来のはたらきとして「不可思議光」という言葉が出てきます。私たちは、何か特別なことが起こったり、思いもよらないことが起こった時に「不思議だ」と言います。しかし、仏教で言う不可思議・不思議とは、ややこしいかもしれませんが、実はすごく当り前のことを言うのです。

 今、当たり前のように生きているこのことが、どれだけのはたらきの中で、どれだけの歴史の中で、様々ないのちの連なりの中で成り立っているのか。今、どれだけの恵みと支えで生かされているのか。「当たり前」だと思っていたことが、どんなに不思議なことだったのかと驚きを感じる身に育てて下さるのが仏法であり、そのはたらきを「不可思議光」とあらわされているのです。


 どんなに不思議なことが起こっても、それを「当り前」だと思う者には、よろこびも感動も、満足もありません。しかし、自分が仏法に育てられていく中で、当り前だと思っていたことが、実は「不思議」なことであり、「有り難い」ことであったのだと気づかされる。そんな身に育てられて初めて、よろこびや感動を味わうことができるのだと教えられるのです。
 そこにこそ、自分の人生を満ち足りたものとして、いただくことができるのではないでしょうか。■