2015(平成27)年11月   



 葬儀に行きますと、様々な悲しみと出遇います。しかし、中には気丈にふるまう人もあり、明るくふるまう人もあります。ところが先日、ご主人の七回忌を済ませられた方から、「主人の葬儀から三年間の記憶が、あまりないのです。」と言われたのです。周りからは、しっかりしておられると感心され、元気に見えたその方も、実は深い悲しみの中にあったのでした。人は、外からでは見えないものを抱えながら、生きているのだと教えられ、私がいかに薄っぺらくものを考えていたかと深く反省させられました。

目には見えなくても、誰もが悲しみ、悩み、苦しみを抱えながら生きています。それを呑み込んで生きる人を、「のん気」だと笑う人こそが、実は「のん気」な生き方をしているのかもしれません。私たちが見ているのは、その人の一部でしかないことを、忘れてはならないでしょう。

仏道修行の根本は、正見(正しくものを見る)です。ここでの「正しさ」とは偏らないということであり、つまりは「ありのままに見る」ということです。しかし、私たちは「ありのままに見る」ことはできません。茶筒も、真横から見れば長方形に見えますし、真上から見れば丸に見えます。斜めから見たとしても、内側は見えません。

 

テレビの映像も同様に、ある角度から切り取った一部にしか過ぎないのです。それは時には、視聴率をあげるために、面白おかしく、わかりやすいようにという意図的に切り取られている場合もあります。時には政治的な意図が入り込む場合もあるでしょう。そこには切り捨てられた景色もあるはずなのですが、私たちにはそれを見ることはできません。



 だからといって開き直って、一部ですべてを判断することは危険です。自分に置き換えてみても、一部だけで全人格を決めつけられることほど、嫌なことはありません。だからこそ、今見ている景色は一部でしかないことを自覚する。角度を変え、立場を変えて物事を考えてみる。目には見えない部分を想像していくことが大切なのです。

「大切なのは、世界は多面体であるということ。とても複雑であるということ。そんなに簡単に伝えられないものであるということ。でもだからこそ、豊かなのだということだ。」(『世界を信じるためのメソッド』森達也)

そんな営みこそが、人生を心豊かに耕していくのではないかと教えられるのです。■