2015(平成27)年3月   




 「人間は死ぬんだ」ということは、誰もが頭ではわかっています。しかし、大切な人を亡くした時、「人間は死ぬからね」とクールに割り切り、言い放つ人を見たことがありません。(言える人がいるとしたら、それはうまく表現できないからか、もしくは大切に思っていないからでしょう。)頭では理解していても、別れの事実を突き付けられたら、やはり悲しい。それが人間です。

つまり、知識として知っているということと、本当に知っていることとは違うのです。にも関わらず、理論や理屈で知ったつもりになっている。現代社会に生きる私たちは、そんな生き方をしてはいないでしょうか。

 

仏教には、たくさんの宗派があります。すべて、「仏に成る(成仏する)」ことを目指す教えです。ちょうど山の頂上を目指して登るのに、いくつもの道があるのと同じだと言えるでしょう。だから、「行きつくところは同じであれば、どこを歩いても一緒だろう。」と言われる方があります。しかしそれは、遠くから山を見ているか、地図上でわかっているつもりになっている人の言い分でしかありません。

実際に山を歩けば、思わぬところに藪がある、岩が道を塞いでいる、そんなトラブルはいくらでもあります。遠くからは平坦に見えても、段差や穴があったりもします。一歩踏み出さなくては、わからないことだらけです。
 何より、たくさんの道があったとしても、歩む道はひとつ。そして、それが自分の分限に合うものでなかったら、何の意味もありません。元気な時にはヒラリと飛び越せる小川も、軽々と登れる岩場も、疲れたり、病気になったり、歳をとれば、大きな障害となって立ちはだかってきます。いくら道を知っていても、実際に歩くこととは違うのです。

 

人間は、生身の身体があります。いつまでも起きてはいられませんし、長時間、飲まず食わずで過ごすことはできません。病気にもなれば、歳もとる。感情もあるし、思い入れもある。いつも合理的にはふるまえませんし、つまらない事に落ち込み、くだらない事に怒ります。そして、大切な人を亡くしたら、つらく悲しい。それが、人間という生き物の事実です。

しかし、現代社会にはびこるグローバリズムが求めているものは、低賃金で、素早く、合理的に働き、文句も言わずに、会社の利益のためにふるまう人材です。家族の介護も、大切な人の死も、地域の人々との支え合いも、すべて会社の利益の邪魔にならない範囲で行われなければならない。その考え方が、深く浸透してはいないでしょうか。それは、人間を見失った有り方でしょう。人間の事実を前提にものを考えるのではなく、生身を離れた理論や理屈が優先される。生きづらいはずです。

 

 親鸞聖人という方は、人間が本来持っている弱さ、愚かさ、醜さ、悲しさ、切なさを大切にされた方でした。生身の人間の事実から目を背けられなかったのです。そして、この「われら」が救われる道を仏法に問い直される中で、お念仏の道と出遇われたのです。

聖人が歩まれたその道は、後に多くの人々によって踏み固められ、長い歴史を通して私たちのところにまで至り届けられました。

その道に実際に一歩を踏み出した時、世界は大きく変わって見えくるはずです。大切にすべきは何なのか。悲しむべきは何なのかが。■