2015(平成27)年4月   




 

自己主張の時代です。学校でも「自分の意見をはっきり言える人間になる」ことが、ひとつの目標としてあげられています。日本人は自己主張が下手だと言われますから、グローバル化が進むことで、自分の意思を伝える技術の獲得が求められたのでしょう。

しかし、自己主張とは、単に自分だけの意見を主張することではないはずです。「私には、言いたいことがある」ならば、「あなたにも、言いたいことがある」はずだからです。つまり、相手の主張を汲み取る姿勢が同時に求められなければ、単なる我が儘な言い分にしかなりません。

 

ところがTVでは、政治討論番組に代表されるように、相手をこきおろし、相手の意見をさえぎり、「誰がいちばん非情で致命的な批判を、傷跡が縫えないほどに切れ味のよい断定口調で語れるか」(内田 樹) を大人たちが、競い合ってきました。相手を貶めることで、華やかに主張する。そんな政治家がもてはやされたことを考えると、やはり日本人は自己主張が下手なのだと、つくづく思います。

 

華やかに主張し、注目を浴びる。それがいつしか勝ち組の様相を呈していき、気がつけば「人を殺したのは、目立ちたかったから」とまでいう人間が出てきてしまいました。そこまでしなければ、自分の存在を確認できないと思っているのでしょうか。地味でも、ささやかでも、人生の手触りや手応えを感じられる生き方があったはずです。「縁の下の力持ち」や「お陰さま」と、尊んできた歴史もありました。そんな生き方が、いつしか馬鹿にされ、捨てられたことで、人を傷つけ自分を主張することでしか「生きる実感」を得られなくなったのかもしれません。

 

 

先日、九十歳を越えられ、お寺参りもできなくなられたお婆ちゃんのお宅に伺い、久しぶりにお会いすることができました。手を合わせお念仏称える姿には、温もりがあり、深い年輪を感じさせ、一朝一夕には成り立たない味わいが伝わってきました。

仏教には、薫習という言葉があります。薫りが染み込むように、時間をかけて教えが身体に染み込み、その薫りがまた次の人に染み込んでいくように伝わっていく。それは、長い仏法の歴史に生きるということなのでしょう。華やかではなくても、目立たなくても、そこにはいのちの歴史の中に自分の姿を見出した、確かな足取りがあります。

 

 仏様に呼びかけられている。大きないのちの歴史に呼びかけられ、支えられ、生かされている。その実感を味わう時、一人でありながら独りではないのです。華やかな自己主張をしなくても、自分の人生に確かな手応えを感じることができる世界があるのです。姿より、薫りに生きる道がある。その歴史を見失ってはいないでしょうか。■