2015(平成27)年5月   




東井義雄先生の詩『どこへいっても どんなに逆ってみても 』は、私の大好きな詩のひとつです。

 

「座敷がわたしを下からささえてくれる
廊下に出る 廊下の床が わたしをささえていてくれる
便所へ行く 便所の床が わたしをささえていてくれる
大地に下り立つ 大地がわたしをささえていてくれる
どこへいっても 何をしているときにも 忘れているときにも 怒っているときにも
その わたしを ささえてくれているものがある

とびあがってみた でも やはり おちる以外仕方のない わたし
それを 待ってて ささえてくれるものがある
どこへいっても どんなに 逆ってみても
その わたしを 待ち だきとり ささえつづけてくれるものがある
みんなが 無視し 見放しても 無視することなく 見放すことなく
ささえつづけてくれるものがある」    
東井義雄

 

私たちは、「自分で立つ」と思っていますが、支える大地がなければ、立つことができません。自力だと思っていることが、実は多くの支えによって成り立っているのです。近頃は、「自己責任」という言葉が独り歩きしていますが、自分の人生を自分の力だけで生き抜こうなんて、まさしく傲慢だと言えるでしょう。逆に、支えられていることにふんぞり返り、責任を押し付けるだけのクレーマー的態度も傲慢ではありますが。

 

『他力資本主義』という本を書かれた湯川カナさんは、「自己責任論で語れるほど、世界は甘くない」と言われています。

◇ 今の日本では「がんばれば報われる」というロジックが、強い力を持っている。逆に「報われないのは、がんばりが足らないからだ」となってしまう。そうなると、どこまでも、自分を責めることになる。

◇ 世界は、コントロールできない。できないのにも関わらず、やろうとするから
   苦しみが生まれる。

◇ 「自分が正しい」ということは、まわりが全部間違っているということ。

(『他力資本主義』徳間書店 より)

 

湯川さんの指摘は、非常に仏教的です。自己責任論では、失敗はすべて自分のものになりますが、それを抱えきれるほど、人間は強くない。にもかかわらず、失敗すれば叩かれ、貶められ、傷つけられる。TVやメディアはそれを、面白おかしく取り上げ、視聴率を稼いでいます。これでは、いつ自分の番が来るかわからないと、ビクビクしながらしか生きられません。

責任って、かつては取り合うものでした。ところが、いつしか押し付け合うものになりりました。自己責任を叫ぶほど、皮肉にも無責任な世の中が広がったのです。

 

親鸞聖人は「己が分を思量せよ」と言われています。「自分の分限をわきまえろ」という意味ですが、卑屈に受け止める必要はありません。これは「自分にはできないことがたくさんある。私たちは多くの助けにより、支えによって生かされているのだ。」という冷静な状況分析なのです。

 湯川さんは、こうも言われます。
 ◇ 世界がコントロールできないことが心身で受けとめられると、人の心は「開
   き」ます。世界が「開き」ます。


  ◇ 勇気をふるって、おずおずと手を差し出すとき、必ず同時に、世界のどこか
   から、あなたに向かって手が差し伸べられます。あなたが手を差し出した瞬
   間に、世界が在り方を変えるのです。ちょうどまさに、あなたへと手を差し
   伸べるようなかたちに。

(『他力資本主義』徳間書店 より)

 

それは、手を差し出した瞬間に、差し伸べられるものではないのでしょう。すでに与えられ、支えられていたことに気づくということでもあるのです。この気づきは、これまでの過去を違った景色に変えていきます。同時に、はねのけていた手を素直に握れるようになることで、未来への生き方も変わるのです。

 

これは、人間関係だけに留まりません。この私の存在を、私が忘れていようが、逆らっていようが底の底から支えて下さる大地がある。それを私たちの先輩方は、「阿弥陀の大地」といただかれました。私たちには、どんな時にも受けとめ、支えて下さる阿弥陀様の世界があるのだと。

だからこそ、安心してずっこけられるのです。そして、再び立ち上がることができるのです。支えられる大地に気づくからこそ、自分の人生に対して、本当に責任をとっていく生き方が開かれるのだと教えられるのです。■