2016(平成28)年6月   






 2015年、ノーベル医学生理学賞を受賞された大村智・北里大特別栄誉教授は、特許料などで得た巨額の収益を、美術館・温泉・病院、そして教育などの社会貢献に使われています。「人の役に立つかということが、分かれ道に立った時の基準にしていた」とのこと。また、頭が良くて理科ができるとかじゃなくて、ちゃんとした人間が育たないといけない。私もできることがあれば応援したい」と、後進を育てることにも力を入れておられるのだとか。いやはや、頭が下がります。


 科学技術が発達して、いろんな「できること」が増えました。しかし、知識を得て、力を得ても、それをどう使うのかは人間性によります。例えば、「振り込め詐欺」の手口は巧妙で、相当頭が良くなければ考え付かないようなものばかり。いくら頭が良くても、それが人を騙し、傷つけることに使われるのであれば、そんな知力は要りません。


 何より、「できる」ことと「しない」ことは違います。「できる」けれども、それはあえて「すべきではない」「してはならない」と踏みとどまることは、とても難しく、そこには深い
人間性が育てられなくてはなりません。大村教授の素晴しさは、ノーベル賞を受賞するような発見をしたことよりも、そのことをどう活かしたのかという人間性によるものだと思うのです。


 科学は、私たちの生活にとってとても有効です。しかし、科学が万能であり、科学の発展によってすべてが解決するというのは、傲慢な態度です。
 日本人で初めてノーベル賞を受賞された物理学者、湯川秀樹博士は、人間がやることには、どこまでも限界があるという謙虚さを持つことが大切なのだと言われています。湯川博士は1981(昭和56)年に亡くなられた方ですから、先見の明があったのか、いやいつの時代にも通じる普遍的な言葉であるといえるでしょう。


 考えてみれば、この世の中において人間が生みだしたものなんてあるのでしょうか。自然の恵みを加工することは、生みだしたとは言えません。自然があって人間があるのであり、人間のために自然があるのではないはず。にもかかわらず、自然を人間が使う資源だという傲慢な考えの中に、私たちは生きています。


 長い歴史を通して仏教が問題にしてきた「煩悩」が、まさに暴走している時代だと言えるでしょう。私たちは、足を止め、求めるべき方向を見つめ直す時期にいるのではないでしょうか。