2016(平成28)年7月   





皆さん、裁判の手順ってご存知ですか?私も知らなかったので、調べてみました。大まかな流れは、まず

≪@ 罪状認否≫  検察官が、事件の内容を読み上げる。それについて、被告人が犯行を認めているのか、否定しているかを確認します。

≪A 冒頭陳述≫ 検察官が、今回の事件がどういう流れで起きたのか、どういう被害があったのかを具体的に説明します。

B 検察官の立証 検察官が、事件の内容を証明していきます。

≪C 弁護側の立証≫ 今度は弁護人・被告人側からの立証が行われます。

≪D 論告・弁論≫  お互いの立証が終了した後、検察官が、どのような判決をすべきかを主張する「論告」を行います。「○○という証拠があり、○○という事情があるから、被告人を有罪にして、懲役年の刑を科すべきである」という内容です。これに対し、弁護人から「弁論」が行われ、弁護人としての意見を主張する場となります

≪E 被告人の意見陳述 一番最後に裁判官から被告人に、言い残したことや、一番伝えたいことを話す最後のチャンスを与える意見陳述があります。

ここまでの手続きを経て、ようやく

≪F 判決言い渡し≫となるのです。


ざっと簡略化して書くだけでも、うんざりするような手順ですが、実際には一つひとつにかなりの時間がかかります。その大きな理由のひとつが、冤罪防止のため。無実の罪をきせられ人生を台無しにされる人を生み出してはならない。なぜなら、人間は必ず間違うもの。だからこそ、慎重に慎重を重ねなければならないのでしょう。

 ところが私の生き方を振り返ってみると、「あいつが悪い」と一刀両断。相手の事情を考えることもありません。しかし、それが自分のことになると一転、「こっちにも、こんな事情があって」「あの時は、仕方がなかった」と、自己弁護ばかり。自分を弁護するならば、相手を弁護する声にも、耳を傾けなくてはならないはずです。

 

 親鸞聖人が、「日本のお釈迦様」と尊敬された聖徳太子は、「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず。ともにこれ凡夫ならくのみ。(『憲法十七条』)と言われています。私がいつも正しいわけではなく、彼がいつも間違っているわけではない。共に凡夫なのだと。考えてみれば、当たり前のことなのですが、とても大切で、とても忘れやすいことです。自分がいつも正しいならば、意見の対立する人、文化の違う人、嫌いな人を切り捨てるしかありません。そこには、大らかさも、寛容性も生まれません。

 近頃は、芸能人や政治家が、その場の雰囲気や感情で、虐めのように叩かれています。その場だけのものだから、すぐ醒める。なかったのように、次の刺激を求め、生贄を探す。これでは学校の虐めもなくならないはずです。(こう書いている私も、いつその標的になるのかわかりません。そして、その次の標的は、あなたなのかも。)
 胸に手を当てて、それでも尚、言わねばならないと発する言葉は重いものがありますが、自分を振り返ることもなく相手を裁く言葉の、軽いこと。



聖徳太子も親鸞聖人も、仏様の光に照らされる中で知らされる人間本来のあり方をみつめられました。私たちも立ち止まり、自分の生き方を見つめる場を持つ必要があるようです。