2016(平成28)年8月   




近頃、「国を愛する人になろう」と、声高に叫ぶ人が増えているようです。しかし、「国」の中身や、「愛する」とは具体的にどうすることなのかが、ボンヤリしているような気がしてなりません。ここはとても大切なところです。

 思想家の内田樹先生によると、「故郷を愛する人」になるのは大変だけれども、「国を愛する人」になるのは簡単なのだそうです。「私は、故郷を愛しています」と宣言した時には、「では、お前は故郷に対して、どれだけの貢献をしているのか」という問いが突き付けられますから。取り組みを積み重ね、信頼関係を作り上げるのは大変で、時間がかかります。しかし、日頃からの積み重ねなくしては、「故郷を愛する人」になれないのです。

 ところが、「国を愛する人」になるのはとても簡単だそうです。「あいつは、非国民だ!」と誰かを罵れば、それでOK。あなたも、立派な愛国者になれるのだとか。事実、インターネットの世界では、罵ることで愛国者を自称している人の多いこと。いや、今では超人気有名作家さんや議員さんからも、そんな発言が聞こえてきます。しかし考えてみれば、昔の政治家は、偉かったですね。対立する意見の人をも包み込む、懐の深さがありましたから。

国を愛するのであれば、同じ国に住む人をも愛して欲しい。違う意見や敵は、住む資格がないと切り捨てるのであれば、国を愛しているのではなく、自分の主義主張を愛し、押し付けているだけです。自分の思いを通すために、国を利用しているだけでしょう。第一、罵り合うだけでは、世の中ギスギスするばかり。より良い社会や平和の実現には、取り組みの積み重ねと信頼作りこそ不可欠です。

 

ある浄土真宗のお坊さんが百日間の寮生活を終えられました。二人部屋で百日間。気の合う二人だと楽しい時間でしょうが、人間関係がこじれると泥沼ですね。ぞっとします。その方は残念なことに、気が合わない方と同室になってしまい、とてもつらい日々を送られたそうなのです。そして、こう言われたのだとか。

「あんな奴とだけは、一緒にお浄土に往きたくない。」

気持ちはわからなくありませんよね。

しかしこの言葉を聞いて、私は先輩の言葉を思い出しました。私たちお坊さんも人間ですから、愚痴や人の悪口を言うことがあります。私の先輩も気に入らない人への愚痴や悪口を言うのですが、最後にいつもこう言われるのです。

「あんな奴でも、一緒にお浄土に往かなくてはならんのやなあ。」

 

よく似た言葉です。でも、この二つの言葉の質は全く違います。前者は自分の願いが優先され、後者は仏さまの願いが優先されています。私たちは人間ですから愚痴も出るし、争いもする。そして、自分の思いを通すためには、仏法まで利用しかねないのです。そして仏法の名のもとに、人を切り捨てようとする。他人事では、ありません。私のことです。

 

 私の先輩は、意見が違う人や嫌いな人、そして敵であっても、阿弥陀様から見れば同じく等しく願われた仲間だという仏法を優先されました。それがブレーキとなり、自分の思いを抑えていく。そこに意見が違っても、敵であっても、共に生きる世界が開かれていくのです。

阿弥陀様の心をいただいて生きるとは、こういうことなのだと教えられました。そんな歩みこそが、本当の平和を願う生き方に繋がるのではないかと教えられるのです。■