2016(平成28)年9月   





あるお寺に、日頃お参りされることのないご門徒の男性が、突然訪ねてこられたそうです。用件は、「神さんに見てもらったら、水子供養のためにお寺へ行って三部経を読んでもらえと言われましたので」ということでした。よくよく事情を尋ねると、もう十二、三年も前のこと。訳あって、子どもを生むことができなかった。女性に、中絶をさせた。ところが最近、どうも健康がすぐれない。そこで、神さんに見てもらったと言われるのです。

ご住職は、「浄土真宗では、そんな気休めのお経は読みません。共に目覚める方向へ歩ませていただくようにと、教えを聞くことが大切なのです」と、一旦は断られました。しかしここで断ると、この人はまた他のお寺へ行って気休めのお勤めをしてもらって、それで済まされるだろう。ならば、せっかくの仏縁を生かそうと思い直し『阿弥陀経』一巻を丁寧に読まれました。
 お勤めが終わり、ご住職は尋ねられます。

「読経中、何を考えながらお参りしておられましたか?

@今あの子が無事でいたなら何歳になっていただろうか・・・、かわいそうなことをしたな・・・か。
Aあるいはこれで水子も浮かばれて、私の病気もなおるだろう。やれやれ、か。どちらですか?」

その方、しばらく黙り込んだ後、「後の方です。健康がすぐれないので見てもらったら、水子の供養をせよと言われたもので……。」と告白されました。

 ご住職はこう言われたそうです。
「あなたは、水子のためと言われたが、本心は自分のため、我が病気のために亡き子どもさんをダシにしていたのではないですか。その時は、ご事情があったにせよ自分の都合で中絶し、今はまた自分の都合で我が子をダシに使おうとしている。それが、今のあなたの姿ではありませんか。ならば、気ままで、勝手この上ない自己中心の営みを、あなた自身が重ねるだけです。そしてその罪業は、お経で帳消しにはなりませんよ。お経はむしろ、その罪の深さを教えるご説法なのですから。」

「では、どうしたらよろしいのですか。」

「煩悩の心で生きている私達は皆、罪業の持ち主なのです。あなただけではありません。その罪の自覚の上に、仏の教えに救われなければならないのです。そして自分が救われた時、初めて子どもさんも救われるのです。

 今日、お寺の門を入る時は『水子のせいで』と思ってこられたでしょうが、この話を本当にわかって下さるなら、門を出て帰られる時は『あの子のお陰で、大切なことに気づかせてもらった』と受け取られるでしょう。
 そういうご縁をいただいたという目覚めを通して初めて、生まれることができなかったお子さんは、私を導いて下さる仏様であったといただく世界が開かれるのではないでしょうか。」とお話をされたそうです。
 それ以来、その男性の方は、お寺に聴聞に参られるようになられたということです。

 

 私たちは、自分の都合にあわせて、物事を判断します。時には、亡き人をタタるものとして扱うことも。しかし、それではどこまで行っても、自分の都合というものに振り回される生き方でしかなく、迷いを深めるばかり。真実のあり方に目覚めることはできません。

仏法とは、自分に都合の良い人生を実現させるものではなく、その罪深さを教え、私を目覚める方向へと歩ませて下さるはたらきなのです。仏法をいただき、目覚めを通した時に、亡き人を仏様と仰いでいく生き方が開かれるのだと教えられるのです。■