2017(平成29)年3月   



 

私の愛して止まない広島カープのレジェンド(伝説・偉人)といえば、黒田博樹投手です。昨シーズンの優勝を区切りとして引退した彼は、弱かった時代のカープを支えた後、アメリカのメジャーリーグでも活躍。年俸21億円ともいわれる誘いを断り、カープへ帰ってきてくれた「男気」溢れる名選手でした。

41歳で引退を決めた黒田投手は、ここ数年「これが最後の登板になるかもしれない」「これが最後の一球かも」という覚悟で、心を込めて投げていたそうです。まさに茶道の「一期一会」(茶会は二度と繰り返されることのない一生に一度の出会いであるという、亭主と客の心構え。)に通じます。




ラテン語には、「メメント・モリ(死を思え)」という言葉がありますが、思想家の内田樹先生は、

「私は明日死ぬかもしれない」ということを、いつも念頭において暮らしなさい、ということです。そうすると「当分オレは死なないだろう」と高をくくって暮らしている場合よりも、生きている時間の質が高まる。ひとつひとつの経験の意味が深まり、ひとつひとつの愉悦の奥行きや厚みが増す。生きることの深みや厚みや奥行きを味わい尽くしたいと願うなら、「死を思え」。そういうことだと僕は理解しています。                      (『困難な成熟』内田樹)

と言われています。確かに、「死」というものを生活から排除した現代社会では、「生きる」ということがどうもボンヤリしているのではないでしょうか。「これが最後かも」と思うからこそ、人生の一瞬が輝いてくるというのは、深くうなずける話です。



 仏教では、無常ということを言います。この世のものに常なるものはない。すべてが留まることなく常に移り変わっていくのだと。つまり、この私にもいつ死が訪れるかわからないのです。だからといって、「どうせいつ死ぬかわからないのだから、好きなこと、やりたいことをやった方がいい。」と投げやりに人生を生きることは、虚しい生き方です。第一、次の世代のことも考えない、やりたい放題の生き方では、周りの迷惑でしかありません。
 それよりも、ひとつひとつの出遇いを、ひと時のかけがえのなさを、尊さを、深く味わうことの方が、よほど人生を豊かにするのではないでしょうか。



 

 先日、ご門徒の方と話していましたら、「この歳になると、明日どうなるだろうかと不安です。」と言われたので、黒田投手の話と共に、ならば「これが最後の出遇いになるかも」と、ひと時を大切に生きるというのはどうでしょうかと、提案してみました。ひと時を無駄に、雑に生きている私には、こんなことを言う資格はありませんが、話しながら自分の背筋も伸びたような気がしました。■