2018(平成30)年1月   


皆さんは、お墓についてどんなイメージを持たれていますか?一般的には、暗い、気味が悪い、怖いといったものではないでしょうか。では、お仏壇については、どんなイメージを持たれているでしょうか。やはり同様に、暗い、気味が悪い、怖いと言われる方が多いのではないかと思います。

しかし、お墓やお仏壇に親しまれておられる方は、まったく違っているようです。ある若い子は、お墓が大好きだそうです。なぜなら、見守られているような気がするからだとか。同様に、子どもの頃からお仏壇に親しまれ、現在都会で暮らしておられる方は、お仏壇を迎えられた時に、「やっと手を合わす場所ができました。私は、手を合わす場所が欲しかったのです」と言われていました。お経を称える声もそうでしょう。有り難いと感じる人もいれば、最近の都会のマンションでは、お経の声が聞こえると、気持ち悪いものとして受け止める人もいるようです。受け止め方によって、景色はまったく違って見えるのですね。いや、同じ世界を生きていても、受け止め方ひとつでまったく違う生き方になるのだということなのでしょう。

 

近頃は、除夜の鐘の音がうるさいと近隣住民の苦情を受け、昼間や夕方に鳴らすお寺があるそうです。うるさいとしか感じられないのは、正月も関係なく働かざるをえない社会の変化もあるでしょう。同時に、自分の快適な空間を設定し、それを邪魔するものは排除しようとする考え方からなのかもしれません。昔は、プライベートな空間を設定できる人など、まずいませんでしたから、現代社会特有の考え方だと言えるでしょう。

 

また、保育園への入所を希望しているにもかかわらず、定員オーバーで入所できないという待機児童≠ェ問題になっていますが、地域によっては保育所建設に住民が反対するケースもあるようです。送り迎えの親たちの会話がうるさい、渋滞も起こるなど、気持ちがわからなくはないのですが、中には子どもがうるさいという声もあるのだとか。

私の住んでいる地域では子どもの声がしなくなり、みんな寂しい思いをしています。まったく対照的ですね。子どもの声を、自分の生活を不快にさせる騒音と受け止めるのか。それとも「あんな頃も、あったなぁ」「私も、我慢してもらって、許されて、育てられてきたのだなぁ」と受け止めるかでは、景色が違って見えることでしょう。

受け止め方によって、世界が変わり、生き方も変わるのです。思想家の内田樹先生は、「世界の深さは、すべては世界を読む人自身の深さにかかっている。浅く読む人間の目に世界は浅く見え、深く読む人間の目に世界は深く見える。」(『逆立ち日本論』養老猛司×内田樹)と指摘されています。

 

現代社会に生きる私たちは、周りの環境を変えることで、快適さを得ようとする方向に進んでいるのではないでしょうか。だから、「鐘の音がうるさい」「子どもがうるさい」というクレームにもつながるのでしょう。しかし、私の快適さを邪魔するものが敵だということであれば、世界全体を私のために変えなくてはならなくなります。そんなことは、すぐにはできませんし、敵は次から次へとやってきて、切りがありません。逆に不快さの中で生き続けなくてはならなくなります。それよりも、もっと良い方法があるのだと、仏法は提示して下さるのです。それは、私が変わることです。思い通りにしたいという「私の思い」が、実は間違ってはいないか。まず問うべきは、思い通りにならない人生を、どうより良いものにしていくかと、私と世界との向き合い方を考え直すことなのです。

 

春になるとウグイスがホウホケキョと鳴きます。それを聞いて、皆さんは何を思われますか?

ホウホケキョと聞いて、「春が来たなぁ」と感じるのは、風流な方でしょう。

ホウホケキョと聞いて、「うるさい」と感じるのは、少々神経質な方なのかも。

ホウホケキョと聞いて、「珍しいなぁ」と感じる人は、都会の人でしょう。

何も関心がない人には、「ホーホケキョ」という声にも気づけないかもしれません。

日蓮宗の方は、「法、法華経と鳴いている。ウグイスが、法華経を讃えている」と聞かれるそうです。

蓮如上人という方は、ウグイスの声を聞いて、「ああ、鳥さえも、法(仏法)を聞けよと教えてくれている」といって大変喜ばれたそうです。

ウグイスが「ホーホケキョ」と鳴くのは、縄張りを主張したり、メスを呼び寄せるためであって、何も『法華経』を讃嘆したり、聞法をすすめるために鳴いているわけではありません。しかし、その声を「法を聞けよ」と聞ける人は、もう達人の域ですよ。人間が豊かに成長しなくては、こうは受け止められないでしょう。受け止め方で、世界は変わります。ならば、ウグイスの意図がどうあれ、自らの生き方を豊かなものにする「喚び声」と受け止めていく生き方に、私は魅かれるのです。

 

親鸞聖人は、この世は教えに満ち満ちている。「喚び声」に満ち満ちていると教えて下さいました。そのみ教えを、「喚び声」を、一言で尽くせば「南無阿弥陀仏」です。一言であっても、その中身は無限にあります。一度聞いただけでわかるものではありません。「南無」には、「阿弥陀仏」にはこういう心が込められていたのか。阿弥陀様とは、どんな仏様で、どんな生き方をされるのか。それを味わう中で、「ああ、これが真実の生き方、考え方というものか。私の思いはねじれていたな」ということに気づく。「南無阿弥陀仏」と称える時、今まで聞いた教えが、思い出されてくる。「こんなときは、こういうふうに考えるべきだったなぁ」とか、いろんなことに気づかされていく。「喚び声」に、育てられ、導かれていくのです。

 

阿弥陀様からの「喚び声」は、常に、既に、届けられてあります。しかし、なかなか「喚び声」とは受け止められないのが私たちなのでしょう。しかし、聞かれなくても、受け止められなくても、飽きることなく常に喚び続けておられるのだとも教えられるのです。この深い心に感動できるかは、まさに私の受け止め方ひとつです。■