2018(平成30)年7月   




幼稚園の園長をしている友人から、こんな話を聞きました。

「一番、質の悪いクレーマーって、どんな人だと思いますか?それはね、優秀な人なんですよ。優秀な人が保護者として園にやってくる。すると「ここを修理したら良い」「ここは改善すべきだ」と、色んなところに目が行く。確かに、そうだと思います。すべて正しい意見です。ところが、園にも事情があるんです。予算がない。人がいない。時間がない。大切だとは思うんだけれども、なかなかそこまで手が回らない。すると、「園は、一体何をやっているんだ!」と怒り出す。正しいだけに、止まらない。こんな人が、一番困るんです。」

どんなに正しいことであっても、指摘される側にも事情があり、置かれた状況があるのです。それを無視された時、人は軽い言葉であっても深く傷つきます。そんな時に、「何か、事情があるのですか?」と尋ねられ、共感されると救われるような思いがしませんか。また相手の事情を聞くことで、こちらが持っている印象がガラリと変わり、自分の浅はかさに気づかされることもあります。

しかし、「自分が正しい。お前は間違っている」と思っている時は、自分を振り返りません。正しいという思い込みが、止めどもなく相手を傷つけていることに、気づくことさえできません。



『イソップ寓話』に、「水浴びをする少年」というお話があります。川で水浴びをしていた少年が、深みにはまって溺れてしまいました。少年は大声で叫び、通りかかった旅人に助けを求めます。しかし、旅人は手を差し延べようとせず、「どうして溺れるようなことをしたのか!」と少年を叱りはじめたというのです。少年は叫びました。「お願いだから助けて!そうしたら、どんなに叱っても構わないから・・・」

少年の軽はずみを叱ることは、正しい行為かもしれません。しかし、いくら溺れている者に正しさを語っても、それは無意味です。相手の事情も考えず、正しい言葉で主張することの虚しさを教えられるお話です。

 


 近頃は、テレビでも、インターネットでも、「正しい言葉」が飛び交っています。不祥事を起こした人を悪者として吊し上げ、正しい言葉でバッサリと斬り捨てています。あたかもドラマ『必殺仕事人』のように。

ドラマであれば、悪い奴をやっつければスカッとして終わります。しかし現実では、そうはいきません。叩かれた側には深い傷が残り、周りの人にも影響があります。私たちが住む田舎のように、顔が見える地域では、斬り捨てられた人も、その関係者も共に生きていかなければならない住人です。責任をもって、きちんと後始末し、うまく収めてくれるのであれば良いのですが、結局は言いっ放し、斬りっ放しで終わりがち。それで本当の問題解決にはなるのでしょうか。かえって後々まで引きずり、事態がややこしくなるケースがほとんどです。

問題を解決したいのか、自分がスカッとしたいのか。一体どちらなのでしょう。正しい言葉が、状況をより悪化させるかもしれない。そんな後ろめたさを持つことは、とても大切なことであるはずです。

ちなみに『必殺仕事人』の登場人物は、「どう理屈をつけようと殺しは悪でしかない。自分達はあくまでも裏稼業。だからこそ、敢えて金をとっている」という立場を崩しません。「正義の味方」ではないのだと。だからでしょうか。その後ろめたさや悲しみのようなものが、ドラマに幅と深みを与えているように思うのです。

 


心理セラピストの杉田隆史さんが、以前働いていた会社に、とても正義感が強い人がいたそうです。「あの人は仕事ができないから何とかして欲しい」「私情をはさんだ人事はおかしい」「あの場所は人が転びそうで危険だから、すぐに直してしてください」と、問題に気がつくと、すぐにトップの人にまで話しに行くというのです。その人の言い分は、すべて正論。いつも正しいことを言っています。

ところが、正しいことを言ってるにもかかわらず、言い分は通らない上に、トラブルが絶えません。とうとうその方は、会社に居づらくなったのか、辞めてしまいました。杉田さんは、その姿を見ながらこう思ったそうです。「正論は人を動かさない」と。

恐らくその方の人生は、ずっと「私は正しいこと言っているのに、周りがいけないんだ」と憤ることの連続だったのではないかと杉田さんは言われます。しかし、人間はいつも正しくは生きられません。間違うこともあれば、失敗もします。それぞれに事情も抱えています。一生懸命に取り組んでも、結果に結びつかないことだってあります。何より、勘違いもあれば、すれ違いもある。こちらから見れば正しくても、あちらからみれば間違っていることも。そんな中で、許してもらい、助けてもらいながら、私たちは生きているのです。

だからこそ、「私がいつも正しいわけではない。私も許してもらっている」という後ろめたさが必要であり、そこに共感も生まれるのではないでしょうか。杉田さんは、こうも指摘しておられます。「正論は人を動かさない、共感は人を動かす」のだと。 
                         (『正しく悩む技術』杉田隆史)

 

阿弥陀如来という仏様は、智慧と慈悲の仏様だと言われます。

仏様の智慧とは、すべてを見通すものですから、誤魔化しのきかない厳しいものだとも言えるでしょう。その光に照らされた時、自らの罪悪深重の生き方、救われ難い凡夫である姿に気づかれるのだと教えられるのです。

しかし阿弥陀様は、罪深いからと、バッサリ斬り捨てる仏様ではありません。そんな生き方しかできない私たちを、同時に慈悲の心で抱きしめて下さる。溺れている者を、まず救わずにはおれないのが阿弥陀如来という仏様なのです。

 阿弥陀様の、ぬくもりに満ちた慈悲のはたらきに出遇われた先輩方は、同時に智慧のはたらきから気づかされた後ろめたさを大切にされました。そこから、共感とぬくもりのある人間関係を生み出していかれたのです。その先輩方の後姿が、私を育て、導いてくださっています。

 私は元来、正義感が妙に強く、頑迷な人間です。そんな私だからこそ、あえて深い反省と戒めを込めて言わねばなりません。「正しい言葉は、相手を傷つけやすい」のです。■