2019(平成31)年6月   




  

「嫌な雨だなぁ」「よりによって、今日降らなくても…」

楽しみにしていたイベント。子どもや孫の運動会。ついつい、愚痴を漏らしてしまうことは、誰しもあるものです。それを、頭ごなしに否定するつもりはありません。しかし、それはあくまでも自分の都合によるものであり、自分から見た一面でしかないことを忘れてはいけないと思うのです。長く続いた晴天を恨めしく思っていた農家の方がいるならば、その人にとっては恵みの雨なのですから。

 逆に、私にとって嬉しいことも、違う立場の人にとっては悪いこともあります。「台風がそれてくれて、良かった」と胸をなでおろしても、それた台風が直撃したところには、悲しむ人がいるのです。

私にとっての「良い」は、誰かの「悪い」かもしれない。そう考えると、「良い」「悪い」ということは、置かれている立場によって、変わるものだといえます。固定化された「良い」「悪い」というものはないのです。
 そう考えると、私の人生に起こる様々な「良い」出来事も「悪い」出来事も、その場、その立場で感じることでしかありません。長い目で見れば、本当に「良い」ことなのか「悪い」ことなのは、わからないのではないでしょうか。

 

 400mハードルの名選手・為末大さんは、エドモントン(2001年)、ヘルシンキ(2005年)の二つの世界陸上で銅メダルを獲得しました。しかしその栄光は、シドニーオリンピック(2000年)での転倒、いきなりの予選敗退があったからこそだと言われています。

悪天候のときに何が起こるか、若いアスリートの特徴は何か、どんなときに精神は乱れるのか…。選手心理や環境が悪いときの状況を把握できるようになった。また、これ以降、僕は世界で転戦する道を選んだ。シドニーの経験を生かせたことで、僕はメダルを取れたのだ。
 シドニーは確かに失敗だった。しかし、あれは本当の意味で失敗だったのか、/何が失敗で、何が成功なのか、実は長い人生においては、分からないのではないか/
後に僕は、明らかな失敗というものは実はない、と確信するに至る。/実際には、その後の過ごし方でいくらでもそうではないものに変わっていくのである。

本当の失敗や敗北とは、転倒したという結果ではない。転倒したまま起き上がらないこと。僕はそう思うようになった。/だから僕が意識するようになったのは、一つ一つの結果に執着しないことだった。一つ一つの失敗や成功の意味を決めつけ過ぎない。あの時は、あれでしかなかった、と考える。ああいうものだったのだ、と理解する。/
 仮に今、失敗を感じていたり、あるいは将来、敗北を実感したりすることになったとしても、そのことで自分を全否定してはいけない。むしろ失敗を肯定し、失敗して良かったと思えることを一つでも見つけるようにすることが大事だ。それができるかどうかが人生を分ける。
 なぜなら、人は負けないわけにはいかないから。勝ち続ける人生なんて、あり得ないからである。                    (『負けを生かす技術』為末大)

 

 「ものは考えよう」と言われます。物事は考え方しだいで、良くも悪くも受け取ることができるという意味です。しかしそれは、自分の都合の良いように受け止めるということではないのでしょう。そうであれば、どこまでも自分の都合という枠組みからは逃れられませんし、枠組みの外にあるものには、気づくことができなくなります。

実は、仏教で問題にするのは、「自分の都合」なのです。為末さんの結果に対する向き合い方は、まさに仏教的なアプローチだと、私は感じました。

 

こんなお話があります。一人の修行僧が、ある禅師を訪ね、教えを乞いました。禅師は修行僧に茶をすすめながら、しばらく話をされました。ところが突然話を止め、いっぱいお茶の入った茶碗にさらにお茶を注ごうとされたのです。修行僧は驚き「禅師さま、こぼれます!」と言うと、禅師は「そのお茶を飲みほせ!」と大喝一声されたのです。

「カラにせねば新しいお茶が入らないように、お前の頭の中に、お前の考えがいっぱいつまっているから、わしの話などみなこぼれおちてしまう。そして、自分の都合のいいところだけを、それもゆがんでしか聞けない。頭をからっぽにしなければ、話を聞くことができないのだ」と。

 

 正と邪、清浄と汚れ、美と醜という、損と得という、自と他という、愛と憎しみという・・モノサシが入って来たら、そのモノサシにかなうものだけは入れることができるが、かなわないものははみ出してしまう。

人間の寸法から見れば、都合の悪い毒蛇や害虫や毒草も、ひとしく安住の地が与えられているのは、この天地にモノサシがないからである。善という寸法、清浄という寸法さえない。それがほんとうの善であり、清浄なのであろう。
 私という思いが、私の好み、私の都合という寸法が入るから、その思いにかなわないとき、好みや都合に合わないとき、それらは皆はみ出してしまう。
                   (『一度きりの人生だから』青山俊董)

 

自分の都合というモノサシで計ると、見えなくなるものがあるのです。自分の思いが強いほど、大切な教えも聞こえなくなる。それが自分を狭め、苦しめることにもつながるのです。

だからこそ、自分の都合を点検してみる。その場だけで、物事を決めつけない。仏教は、そんな態度が開く世界を、指し示してくださっています。世界はもっと深く、豊かなのだということを。■