2019(平成31)年7月   




ある小学校の校長先生から、こんな話を聞きました。

「学校に対して、強い口調で、ケンカ腰にクレームを言い立てる親御さんがいます。それは、不安だからです。不安な気持ちを隠そうとして、攻撃的になる。だから、ゆっくりと話を聞いて、受け止めてあげなくてはいけません」と。
 不安だからこそ、逆に強く出てしまう。「攻撃は、最大の防御」という言葉がありますが、攻撃的になるのは弱みを見せられないから、不安だからとも言えるでしょう。失礼な喩えになるのかもしれませんが、「弱い犬ほど、よく吠える」ということわざもあります。

不安な気持ちがあるのなら、わざわざ攻撃的ならなくても、素直に助けを求めれば良いはずです。それほどまでに、弱みを見せられないという思いが強いのは、なぜなのでしょうか。
 考えてみれば、近頃は「迷惑をかけるな」「自己責任だ」という声が圧力のように、この社会を覆っています。強くならなくてはいけない。自立しなくてはいけない。それどころか、迷惑をかける人間は生きる資格がないと言わんばかりに。だから、弱みは見せられないし、助けを求められない。不安はますます強まり、不安を隠そうとすることで、また攻撃的な態度が生まれるのかもしれません。

 

以前、保護司の研修会で、ダルクという薬物依存症の人たちの更生施設に行ってきました。依存者同士が自らの経験を語り合う中で、助け合い、支え合いながら、更生していく場です。ダルクでは、人間回復を目指しています。人間回復と聞くと、「強くなる」「自立する」「薬物の誘惑に負けない人間になる」そんなイメージを持ちませんか。私は、そんな思いで見学していました。

ところが意外なことに、全く逆だったのです。ダルクの目指す人間回復とは、「自分の弱さを認めること」そして、「私は助けてもらっていいのだと気づくこと」だと言われるのです。

薬物の快感は、脳に直接影響を与えますから、理性ではコントロールできません。だから弱さを認め、薬物から遠ざかるしかないのです。実際に、ダルクのスタッフの人たちは「私たちは今でも薬物依存者なのですよ。目の前にあれば、必ず手を出します。それを自覚するからこそ、遠ざかるようにしているのです」と言われていました。見た目には、とても依存者だとは思えませんでしたが。

薬物依存症になる人たちは、家庭環境に問題があることが多く、疎外感と孤独感を抱えているそうです。それは、周りが信頼できない、みんなが敵に見えるということです。敵ならば勝たなくてはなりませんし、弱みは見せられない。しかし人間ですから、いつも勝つことなどできません。だから常に不安がつきまとい、不安を解消するために、つい薬物に手を出してしまう。薬物は、全能感(自分は何でもできるという感覚)を生みますから。信頼できる場所、安心できる場所がないのは本当につらいことです。それだけ傷つき、心にポッカリと穴が開いているのでしょう。まさに、空虚な心が強さを求めるのです。

そんな状況からは、自力で抜け出すことはできません。しかし、周りを敵と思っている時には、助けを求めることなどできるはずもありません。そんな時に、同じ経験をした人から「弱さを受け入れていいんだ」「助けを求めていいんだ」と言われることは、確かな力になるはずです。簡単にうなずくことはできないでしょうが、そう生きた人が目の前にいるということは、とても大きなことですから。

 ダルクの取り組みを目の当たりにして、私は親鸞聖人の生き方を思いました。親鸞聖人は、自身の弱さ、愚かさ、悲しさ、切なさを、「強さを求めることで克服する道(自力)」から、「受け入れ、素直に助けを求める道(他力)」へと方向を変えられたのです。それは、私という存在を丸ごと受け止め、支えてくださる阿弥陀様の世界との出遇いがあったからでした。阿弥陀様への信頼を通して、新しい人生が開かれたのです。そんな人が、私の前を歩んでくださることの有り難さを感じます。

 

 私たちが生きている現代社会は、強さを追い求め、弱さを受け入れにくい状況になっています。自己責任が叫ばれ、素直に助けを求めることが困難な状況です。それが不安を呼び、空虚な心を生み、強がる態度や攻撃的な口調を生み出していく。あたかも、中身のなさを隠そうと、大きな音を立てるかのように。そんな生き方が、私たちの人間性を失わせているのではないでしょうか。

 そんな中で、私は親鸞聖人と出遇うことができました。弱さを受け入れ素直に助けを求めることで、新たな人生を開かれた人が、私の先を歩まれている。その歩みが、私を少しずつ人間へと回復させてくださっています。■