2020(令和2)年1月   






「オレニマカセロ」という名前の競走馬がいたことをご存知でしょうか。名前は頼もしいのですが、残念ながら一度も勝つことができないまま引退。名前とは違って、頼りにはならなかったそうです。

 しかし近頃は、「オレに、まかせろ!」と言ってくれる人が少なくなりましたね。昔は、そんな人がたくさんいました。ところが今はどうでしょう。責任を取り合うよりも、押しつけ合う時代です。

そんな時代ですから、責任を押しつけられないようにと、自分を守らなくてはなりません。気がつけば、私たちはいつもバリアを張り、周りを警戒しながら生きているのではないでしょうか。

とはいえ、いつもバリアを張りながら生きていくのは大変です。囲いの中では心は萎縮し、ストレスも溜まります。ある方が「木を囲むと『困る』、人を囲むと『囚われる』という字になる」と言われていましたが、自分を守るはずのバリアが、のびやかな成長を阻む壁にもなりかねないのです。そうなると、私に向けられる温かな心にも、思いもよらない豊かな世界との出遇いにも気づけなくなってしまいます。

 だからこそ人間には、安心してバリアを外す場所、受け止められる場所が必要なのです。そういえば昨年、政治家の小泉進次郎さんが結婚を発表される際、お相手の滝川クリステルさんを「(彼女の前では)政治家・小泉進次郎ではなくて、人間・小泉進次郎という素のままの自分でいられる。そういった存在だ」と言われていました。確かに注目される人気政治家は、私たち一般人よりも強い緊張感でバリアを張って生活しなくてはならないでしょう。ならば、安心できる人や場があるかどうかで、日々の生活そのものが大きく違ってくるはずです。

 



 あるショッピングモールでのこと。一人のお母さんが、赤ちゃんを抱えながら小さな男の子を連れていました。すると、男の子がグズり出したのです。「ちゃんと歩いて。お兄ちゃんでしょ!」とお母さんが言っても、男の子は「嫌だ、嫌だ」とますますグズります。その時お母さんが「ちゃんとして!」と、その子の頬っぺたを叩いたというのです。周りの人たちはビックリ!中には、「なんて酷い親なんだ」「虐待じゃないか」と、つぶやく人もいました。

すると、一人のお婆さんが、お母さんのところに近づいて、こう話しかけました。

「お母さん、子育て大変ね。お兄ちゃんも、お母さんが赤ちゃんのお世話で大変だから、寂しかったね」

お母さんは、その一言で、ボロボロッと涙をこぼし「ごめんね。ごめんね」と男の子をギュっと抱きしめたというのです。

常にバリアを張り続けていると、私たちは弱みを見せることができなくなります。しかし、自分を受け止めてくれる人と出遇う時、素直になれる。安心してバリアを外し、自分の弱さや愚かさを受け止めることができるのでしょう。そこに、思いもよらない世界が開かれていくのです。

 


 阿弥陀如来は「かならず救う、我にまかせよ」と、私たちに呼びかけてくださる仏様だと言われます。「南無阿弥陀仏」のお念仏は、その「まかせよ」という呼び声だと。それは、私を一切否定せず、無条件に受け止めてくださる呼び声です。

 そして、その呼び声に身をゆだね、安心感の中に人生を歩まれた人々の歴史があるのです。真宗僧侶で相愛大学教授の釈徹宗先生は、「何か大きな存在に心身を任せる感覚がある人とない人では、ずいぶん人生が違うと思います」(『歎異抄はじめませんか』)と言われています。私たちは、そんな世界を見失ってはいないでしょうか。

 

私の尊敬する真宗大谷派の僧侶・宮城先生から教えられたお話です。宮城先生が、あるおばあさんから「私の家は代々他の宗旨だが、ご縁があって親鸞聖人の教えを聞かせてもらうようになった。今ではこの教えでなくては、私は救われないと思っている。だから、どうしても真宗に変わりたい」という相談を受けられました。宮城先生はその時「ご家族や、今までお世話になったお寺とも話をされ、了承が得られてから、またお話しましょう」と答えられたそうです。

 おばあさんは、子どもさんたちと話をされました。子どもと言っても、すでに五十歳近い方々。長男は、お医者さんです。日頃はお寺の事には無関心でしたから、きっとスムーズにいくだろうと思いきや、「代々お世話になったお寺を、簡単に変わるのはいかがなものか」と、みんなから強く反対されたのです。「お寺のことには無関心だと思っていた子どもたちも、ちゃんと考えていてくれていたのだ」と、うれしい気持ちもありながら、おばあさんは困ってしまいました。

 そんな時に、おばあさんに胃癌が見つかったのです。息子さんはお医者さんですから、どのような状態かはわかります。そんな状況になって、改めて「やはり自分は真宗に変わりたい。私は真宗でなくては救われない」と言われると、子どもさんたちも「そこまで言うのなら、いいよ」と納得してくれたのです。

そして入院前、宮城先生のお寺で、真宗へ変わる法要を勤めました。その帰り際、おばあさんが宮城先生にこう言われたそうです。「これで安心して、悶えてこれます」と。

 これからの入院生活、つらいことも、苦しいこともある。これまで思いもよらなかった醜い自分が出てくるかもしれない。しかし醜さや愚かさをさらけ出しても、「そんなお前はダメだ」と切り捨てられるような教えではない。どこまでも「かならず救う、我にまかせよ」と、受け止めてくださる教えをいただくことができた。これで安心して悶えてこれると。だから最後まで、精一杯生き抜くことができるのだと。

 

仏教でいうところの「信じる」という言葉は、インドのサンスクリット語ではチッタプラサーダといい、心が落ち着いて澄んでいる状態を言います。ですから仏教では、ただ盲信することを信心とは言わないのです。教えを受け、身も心も納得している状態、ゆだねている状態を「信」とするのです。

 この私を「まかせよ」と、無条件に受け止めてくださる阿弥陀様の呼び声に身心をゆだねた時、思いもよらない豊かな世界が広がることを、先を歩まれた方々から教えられています。■