2020(令和2)年6月   





 「自分らしさ」や「個性」が求められる時代です。「あなただけのオリジナルTシャツつくります」「あなただけの旅行を」「オリジナル焼酎を」といった商品が、数多く売り出されていますし、「みんなと違う結婚式の演出を」というのも流行りなのだとか。みんなと違う髪型や服装で、個性を主張する人も、多く見られます。

 私が二十代の頃は、「限定商品」なるものが流行っていました。限定数しか販売されないスニーカーや、腕時計・Gショックを、みんなが競い合って買い求めていたのです。みんなが持っていないもの、違うものを持つことに、優越感を感じる時代でした。当時の私も、それに踊らされていた一人です。





 どうして、ここまで「自分らしさ」や「人とは違う」ことが求められるのでしょう。その裏には、多くの商品が大量生産されるようになったことがあるのだと思います。同じものが大量に出回ることで、みんなが同じようなものを食べ、同じような服を着て、同じようなアパートに住み、同じようにコンビニで買い物をし、学校や会社に行くといったライフスタイルを送る。そんな時代では、いつしか自分の人生さえも、大量生産された商品のように「無個性」や「均質化」しているようにしか、感じられなくなってしまった。どこにでもある商品のように、人生さえもどこにでもあるもののようにしか感じられない。自分の掛け替えのなさを実感できない。そんな思いが逆に、「普通は嫌だ」と「自分らしさ」や「個性」を求める時代を生み出しているのだと思います。

 しかし、みんなが持っていないものを持ち、違う髪型や服装をすることが、本当の「自分らしさ」や「個性」と言えるのでしょうか。確かに、内面が髪型や服装として表現される人もおられます。でも、「みんなと違う」ことだけにこだわるのは、「みんな」を意識していることの裏返し。「みんなと同じことはしない」ために、「みんな」がしないことを選ぶ。「みんな」を意識しすぎて、いつしか「自分らしさ」が見失われる。気がつけば、個性を求める人ほど、よく似た格好をしているような気がします。

私の大好きなミュージシャン・竹原ピストルは、
「人とは違う生き方をしてやるんだって 人と同じことを思いながら」
                          (『BROTHER』竹原ピストル)

と歌っています。いつしか「みんなと同じことはしない」という言葉に踊らされ、みんなと同じセリフを語っているのかもしれません。

  フランスに、サント・ヴィクトワールという山があります。近代絵画の開祖とよばれているセザンヌが、この山の絵を朝に夕に、四季折々に何枚も描いたことで、世界の名山として語られるようになりました。長門市三隅出身の画家・香月泰男先生は、ヨーロッパに遊学された際、初めてその山を見て驚いたそうです。なぜなら、あまりにも変哲のない「普通」の山だったから。

つまりセザンヌの絵が、普通の山を名山にしたのです。それは、有名な画家が描いたからという安易な理由ではありません。サント・ヴィクトワール山の魅力を、「らしさ」や「個性」をセザンヌが描き切ったからこそ、一見普通としか思えない山が、世界的な名山と言われるようになったのです。
 香月先生が、自宅の裏山・久原山の絵を何枚も描かれたのは、この経験からだといわれます。(参考:香月美術館10回展の記念画集『私の地球U』)

 つまり、何の変哲もない景色も、見る人によって掛け替えのないものに見える。どの景色にも、個性的な魅力がある。それを見抜くことができるかどうかということなのです。ならば、自分の人生がどこにでもある普通の人生としてしか思えないというのは、今の自分には、それを見抜く心が育っていないということなのでしょう。「自分らしさ」や「個性」を求めるのであれば、自分のものの見方を深めていくしかないのです。



 

阿弥陀様とは、すべての生きとし生けるものの掛け替えのなさを見抜き、「あなたを敬われ、尊ばれる仏にさせる」とはたらき続けておられる仏様です。そのはたらきに目覚め、育てられた人々の徳が土地に染みつき、生活文化に息づいていることを「土徳」と言います。
 私は、長門に帰ってきて十五年になりますが、「ここは、土徳の地だ」と実感しています。他所の地で暮らしたことで、改めてわかるのでしょう。至る所に、浄土真宗独自の言葉や風習も見かけます。
 そんな「土徳」の地、長門市仙崎出身の詩人・金子みすゞさんに「不思議」という詩があります。

わたしはふしぎでたまらない、黒い雲からふる雨が、銀にひかっていることが/
  わたしはふしぎでたまらない、たれもいじらぬ夕顔が、ひとりでぱらりと開くのが
  わたしはふしぎでたまらない、
        たれにきいてもわらってて、あたりまえだ、ということが

 みすゞさんもまた、「土徳」に育てられたと言っても、過言ではないと思います。何の変哲もない、当たり前で普通としか見られない景色に不思議を感じる心。掛け替えのなさ、尊さを見抜く心が、先輩方の歩まれた仏法の徳によって育まれたのです。

 私たちは、誰を意識しながら生きているのでしょうか。「自分らしさ」や「個性」を求めるのであれば、「みんな」を意識するよりも、私のものの見方を深めてくださる人々の歩みを、徳を、意識していくべきではないかと思うのです。■