2020(令和2)年9月   






この諺は、「稲は成長し、実を熟すほど穂が垂れ下がる」ところから、「人間も学問や徳が深まり、成長するにつれ謙虚になる」ことを表します。同時に「真っすぐ立っている稲穂は、見た目は良いが中身はない」というところから、「小人物ほど尊大に振る舞うものだ」ということでもあります。英語や中国語にも同様のことわざがありますし、誰もが一度は耳にしているほど有名な言葉ですが、改めて聞くととても新鮮に響いてきます。この新鮮さは、どこから来ているのでしょう。

 

 ある女性が、長年の友人から「あなたは、縁の下の力持ちだからね」と言われました。彼女は、「確かに私の容姿は地味だし、学生時代から今でも裏方に回ることが多い。そんな私をよく知っていて、友人は褒め言葉で言ってくれたのだろうけれど、少し寂しい気持ちがした」というのです。なぜなら、「私は、いつになったら縁の下から抜け出すことができるのだろうかと思ったから…」。

「自己主張」の時代です。華やかなスポットライトを浴びて目立とうと、みんなが実績や業績をアピールし、意見を主張します。SNSのフォロワー数や「いいね!」の多さを競う人、過激な発言で注目を集めようとする人もいます。あたかも、縁の下から抜け出そうとするかのように。そんなことでしか、認められているという実感や生きていることへの確かさが感じられない時代なのでしょうか。以前は、縁の下の人たちを敬う気持ちが、社会で共有されていたはずです。だからこそ、支えることへのプライドも成立していたのでしょう。



 



ある女子中学生は、クラスの中で一番上とされる、おしゃれで派手なグループに属していました。ところが、そのグループから仲間外れにされたことで、保健室で過ごすようになりました。彼女を受け入れようとする生徒もいるのですが、位が低いとされる地味なグルーブの女の子たちなので、彼女は絶対に嫌だと言うのです。一方で、自分を排除した仲間たちには無視され冷たくあしらわれても、ご機嫌を伺い卑屈な態度で元に戻りたいと切望している。心理学研究家の山竹伸二さんは、「孤独だけが問題なら別のグルーブの人間に優しくされればその苦しみは癒されるはずなのに、彼女が求めているのはそうではないのだ」と指摘されています。「身分が低い」グループと付き合えば、自分の存在価値が落ちる。それだけは避けたい。そんな抵抗感を持っているのだと。
                        (『「認められたい」の正体』山竹伸二)

 自分が認められたい、生きている確かさを感じたいという気持ちは、誰もが持っています。しかしそれが、他人を見下すことでしか得られないというのは、虚しい話です。実は、これは彼女だけではなく、多くの思春期の女の子に共通する傾向なのだとか。いや、そんな感覚が社会に広がっているからこそ、思春期の女の子に浸透しているのかもしれません。中身よりも、見た目や華やかさが優先される時代なのでしょう。何しろ、目立つために人を傷つけ、殺すような事件も起こっているのですから。






精神科医の松本俊彦さんは、

 結局、みんな内なる優生思想みたいなものを持っているんだと思うんです。自分の中に「人はこうあらねばならない」という幻想の牢獄を自分で作って、その囚人になってしまっている。たとえば、女性の患者さんで「自分なんか30歳すぎて独身で、嫁き遅れて彼氏もいなくて仕事もしてない。もう死にたい」という人がいるけれど、その内なる優生思想が自分の首を絞めて苦しくなってしまっている。
(文春オンライン『自立とは依存しないことではなく、依存先を増やすことだ 若者の自殺に詳しい松本俊彦さんに聞く』)

と指摘しておられます。この場合の「こうあらねばならない」という思いは、高い倫理観や崇高な思想に基づいたものではありません。周りの目を気にして、決めつけているだけのこと。それは、どう生きるべきかという中身よりも、見た目の華やかさを求める時代が生んだ幻想の牢獄です。みんながそこに囚われているから、中身があっても地味なものは評価されない。だからこそ「実るほど頭を垂れる…」という諺が、新鮮なものとして響いてくるのではないかと思うのです。

 

 以前、テレビの討論番組で、精神科医の泉谷閑示さんが「人生の意義≠ニ意味=vについて語られていました。「これは、僕の独特な解釈なのかもしれませんが」と前置きをした上で、「意義≠ニは、役に立つとか儲かるとか、目に見える量的なものに置きかえられる。しかし、意味≠ヘ味という字を使っているように、味わうような感動があるもの。それは数値化できない」といわれていました。
                            (NHK Eテレ『ニッポンのジレンマ』2019223日)

目立つものや派手なものは、誰の目にも映ります。しかし、見えにくいもの、地味なものの良さは、目を凝らさなくてはわかりません。数値化できるものはわかりやすく、数値化できないものの良さを感じ、味わうのは難しい。複雑さが織り成す豊かさ、ほのかな香り、隠し味や苦味があるがゆえの深みは、こちら側が成熟しなければわからない世界です。人生の味わいも、縁の下の人たちへの敬いも、心が豊かに成長しなければ、感じることはできません。





 親鸞聖人は、八十八歳の時のお手紙に「お師匠の法然聖人から、浄土の教えに生きる人は「愚者になりて往生す」と言われたことが、事あるごとに思いあわされる」と書かれています。このお言葉を、私の尊敬する宮城という先生は「愚者であるのではなくて愚者になるのです。/愚者にまで成長するといってもいい」のだと言われています。普通に考えると、おかしな話です。普通は、知識を身につけ、知者になることを「成長する」といいます。しかし宮城先生は、わかったことにし、レッテルを貼り、知者としてふるまう時、私たちは事実から離れていく。決めつけた時に、世界の豊かさを見失うのだといわれるのです。(『愚者になりて―賢さを求める現代の中で』宮城)

確かに、自分の知識だけで世界を決めつけることは、傲慢な態度です。私の知っていることは、一部分でしかない。世界はもっと豊かだし、広く深いはずだという「愚者」の態度が、学びの姿勢を生み「成長する」ことになるのでしょう。その歩みの中で、味わいを感じる心が育てられ、まことの道を歩む実感を得ることができる。それが「愚者になりて往生す」ということだと教えられるのです。

 

20世紀最大の物理学者アインシュタイン博士は「学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるか思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、より一層学びたくなる」といわれています。本物の学びとは、実るほどに謙虚さを生み、頭が下がるものなのでしょう。それは、私を取り巻く世界の豊かさと深さを知ることであり、私たちが囚われている幻想の牢獄から抜け出すことでもあるのです。■