2021(令和3)年1月   





ある方が車に乗って信号待ちをしていた時のこと。開けていた窓から、こんな声が聞こえてきたそうです。

「かわいそうにねえ。あの人、目が不自由だから渡れないんだね」

横断歩道を渡ろうとしていたお母さんが、小学校4〜5年生くらいの娘さんに話しかけていました。道の反対側には、白い杖をついた男性が立っています。

 すると女の子はすぐにその男性に駆け寄り、手を引き寄せて、一緒に横断歩道を渡りました。渡り終えるとお母さんのもとに帰ってきて、こう言ったのです。「お母さん、あの人はかわいそうな人じゃないよ。困っている人なんだよ」と。

 車に乗っていた方は、女の子の言葉を聞いて「ギクッとした」と言われます。なぜなら、その方も「目が見えなくて、かわいそう」だと思っていたから。その思いの裏には、上から下へと相手を見下す気持ちがあったのではないかと。しかし、女の子の「困っている人」という言葉には、同じ地平に立つ等しさが感じられたというのです。誰しも、困る時はある。だから、困った時にはお互いさま。そんな、相手を一人の人間として敬う、温もりがあったことに気づかされたからです。

 私たちはもしかすると、困った人、弱い立場にいる人を「いたわる」つもりで、下に見ているのかもしれません。車に乗っておられた方も、そんな自分の姿に気づかされて「ギクッ」としたのでしょう。

 他人に親切にする。優しくする。相手に喜んでもらう。これは、人間にとって大きな喜びの一つです。しかし、見下した形の施しは、相手に屈辱感を与えかねません。自覚はなくても、相手にそんな思いをさせているのかもしれないのです。


 

 今、舞台演出家の鴻上尚史さんが、インターネットのサイトで連載されている人生相談が話題になっています。『鴻上尚史のほがらか人生相談』として書籍化もされ、大きな反響を呼んでいるようです。

 その中に、「高校時代の友人に絶交された」という28歳女性の相談がありました。それは、「家庭環境に恵まれなかった友人の悩みを聞いて、解決できるようにアドバイスしてきた」という彼女に、友人から「あなたはいつも上から目線で、話したくもないのに人の家のこととか根掘り葉掘り聞いてきて高校時代から苦痛だった。独りよがりのアドバイスで親友のふりをされても迷惑だから、二度と連絡してこないで欲しい」というメールが送られてきてショックです。私は友人のためと思って言ってきたのに…、というものでした。



 鴻上さんは「あなたは、とても優しい人ですね」と理解を示しながら、「でも、よかれと思ってアドバイスすることは簡単ではない」と語りかけます。「話を聞いて」あげることは素敵なことだが、「解決できるように」というのは、本人の問題。どんな解決策を選ぶか、何をもって解決とするか、話を聞いて欲しいだけなのかは、本人が決めること。アドバイスをしても、それを最終的に実行するかどうかは、本人次第。何より、自分を「不幸な人」だと思われることが嫌で、一緒に解決策を考えて欲しいなんて求めてない場合もある。「かわいそう。何かしてあげたい」と思うことは、とても気をつけないと、相手を無意識に見下すことになるのだと。

 「いたわる」ということは、とても難しいことなのです。確かに、恵まれている状況とはいえなくても、他人から「あなたは不幸な人ね」と頭ごなしに決めつけられるのは、悔しいものです。「障害は不便だが不幸ではない」とは、視覚、聴覚を失った中で障害者の福祉・教育に尽くされたヘレン・ケラーの言葉ですが、ここには不幸と決めつけられることに対する反発が伺えます。だからといって、「障害はあっても、不幸じゃないよね」と、苦労も知らない他人に決めつけられても、あまり良い気分はしないはずです。

 自分の思いで決めつけることは、相手を尊重していないということなのでしょう。本人は優しさのつもりでも、独りよがりと言われても仕方がありません。

 

 親鸞聖人は、私たちの慈悲は「思うがごとく助け遂ぐること、極めてありがたし」(『歎異抄』第四条)と言われています。どんなに優しい思いであったとしても、相手を助けることはほとんどありえないのだと。だからこそ「念仏して急ぎ仏になりて、大慈大悲心を もって思うがごとく衆生を利益す」(同)べきであると言われています。つまり、私たちの慈悲や「いたわり」には、限界があるのです。仏様に成らないと「思うがごとく」救うことなどできません。だからといって、仏様に成るまで何もできないし、する必要もないということではありません。

お念仏を称え、阿弥陀様の光に導かれ、照らされていく中で、我が身の愚かさや悲しさや弱さを知らされるのです。そこに、「今、私は恵まれた立場にいるかもしれないが、いつどんな縁に触れて、困る立場になるかもしれない。だから、あなたが困っているのは他人事とは思えない。でも、私にはあなたを助けてあげられるような力はない。だけれども、何か少しでも力になれないだろうか。そして、私が困っているときには、支えて欲しい」と、相手の立場や思いを尊重する「お互い様」の世界が開かれていくのでしょう。私たちは、「いたわる」ことはできなくても、「いたわりあう」ことはできるのです。

 「いたわる」と「いたわりあう」の違いは、「相手」があるかどうかです。阿弥陀様の光に照らされて、私の「いたわり」には限界があることを知らされた時に、改めて「相手」の思いを聞こうという態度が出てくるのでしょう。そこには、共に支え合っている相手の姿も見えてくる。まさに、同じ地平に立つ、等しさが生まれてくるのです。■