2021(令和3)年2月   






日本で一番高い山は富士山。そして世界で一番高い山は、エベレストです。では、エベレストが発見される前、世界で一番高い山はどの山だったでしょうか?

答えは…、やはり「エベレスト」です。「発見前」とは、人間がエベレストの存在に気づいていなかっただけこと。私たち人間が気づかなくても、知らなくても、世界で一番高い山はエベレストに変りはありません。私たちは、自分が知っていること、わかっていることが世界のすべてだと決めつけているのかもしれません。そして、人を決めつけ、自分を決めつけ、人生や世界を小さなものにしてはいないでしょうか。



 

以前、プラネタリウムに行ったときのことです。映画館のような暗い中で、ドーム型の天井に、星空の映像が映し出されます。「これがオリオン座です」「これがサソリ座です」といった、天体説明のアナウンスが一通り終わった後のこと。「これがこの季節の星空です。それでは街の明かりを消すと、どんな夜空になるでしょうか。実験してみましょう」という声が流れました。同時に、家庭や街灯、広告灯などの街の光が消え、暗闇が広がっていきました。

すると…、暗くなっていくほどに小さな星明かりが増え、最後には満天の星となったのです。もちろん街の明かりが消えたから、星の光が点灯したわけではありません。小さな星の輝きは常に照らしているのですが、街の明かりが明るすぎて見えなかっただけのこと。街の明かりが消えたことで、輝きが見えてきたのです。田舎の夜空は星がよく見えますが、都会ではあまり星が見えないのと同じです。





昼間の星もそうです。星は、昼間も出ているのですが、太陽の光が明るすぎて見えないだけのこと。長門市仙崎出身の童謡詩人・金子みすゞさんの詩に、

青いお空のそこふかく 海の小石のそのように 

夜がくるまでしずんでる、昼のお星はめにみえぬ

見えぬけれどもあるんだよ 見えぬものでもあるんだよ(「星とたんぽぽ」)

とある通りです。

現代社会に生きる私たちは、自分の生活や人生を、明るく輝かせようとして生きています。その為に、健康やお金や若さ、仕事や趣味やモノ、そして地位や名誉を求め、それが人生を輝かせるものだと思っています。しかしその輝きは、病気になり、歳をとり、死を突きつけられるという厳しい現実の中で、一つ二つと手放さなくてはならないものでもあります。そして、「歳をとったらダメだ」「お金がなかったらダメだ」「病気になったら…」「迷惑をかけたら…」「死んだら終わりだ」と、その後には真っ暗闇しか残らないと決めつけているのではないでしょうか。

『歎異抄』という書物には、親鸞聖人は「よろずのこと みなもて そらごとたわごと まことあることなき」と言われたとあります。私たちが頼りにしていることは、いずれ頼りにならなくなる。街の明かりが一つ二つと消えていくように、いずれは手放さなくてはならない輝きであり、本当には頼りにならない「そらごとたわごと」なのだと。

しかし、これまで頼りにしてきたことをすべて手放した後に広がるのは、暗闇ではないのです。自分の輝きが消えた時に、初めて見えてくる光がある。それが阿弥陀様の光なのだと教えられるのです。その光は、自分が元気で順調な時でも、つねに照らしてくださっています。ちょうど、都会の夜空の小さな星のように。昼間の星のように。そのことに、私たちが気づけていないだけなのです。


京都には、京都女子大学という大学があります。京都大学が国立ですから、京都女子大学も国立だと思われる方もあるかもしれませんが、この大学は私立で、しかも浄土真宗の系列の学校なのです。ですから、仏教の授業が必須科目。学生は、みんな必ず受けなくてはなりません。

その京都女子大学で長年教鞭をとられていた徳永一道先生が、自宅近くの病院の会計で、支払いの順番を待っていたときのこと。後ろから、京都女子大学の卒業生だという若い女性に声をかけられました。

「実は先生に電話か手紙でお尋ねしたかったのですが、なかなかその勇気がなくて。今幸いお見かけしたので、声をかけさせてもらいました」と言った彼女は、続けてこう言ったそうです。

「先生。阿弥陀さまだけは、最後まで私を見放さないでいて下さる、というのは本当ですね?」と。

悩みを抱えていたのかもしれません。苦しいことがあったのかもしれないし、病院で会ったというのですから、何か病気だったのかもしれません。これまで頼りにしてきたことが、頼りにならなくなった時、仏教の授業で聞いた「阿弥陀さまだけは、最後まで私を見放さないでいて下さる」という言葉が、彼女の中で光輝いてきたのでしょう。授業で聞いたときにはピンとこなかったけれども、苦悩の中で浮き上がり、彼女の心の支えとなった。だから徳永先生に、もう一度確かめたかったのだと思います。

私たちは、自分が知っていること、わかっていることが世界のすべてだと決めつけ、人を、自分を決めつけ、人生や世界を小さなものにしているのではないでしょうか。しかし、私が気づこうが、気づくまいが、常に私を照らし続けてくださる光があるのです。煩悩で濁った迷いの眼には見えないけれども、阿弥陀様の光はいつも私たちを照らし続けていてくださる。導き、支え、はたらき続けていてくださっているのです。■