2021(令和3)年4月   






 今月の言葉は、私にとって本当にうなずける言葉です。「これ、あったら便利だよなぁ」と思って購入した商品を、どれだけタンスの肥やしにしたことでしょう。健康器具や掃除用品…。テレビショッピングの実演販売士さんの言葉って、どうしてあんなに魅力的なのでしょうか。

 毎日新聞の川柳欄に「通販の 有ると便利は 買って邪魔」(仲畑流万能川柳)というものがありました。私たちは、やはり「便利」や「快適」という言葉に弱いのです。ところが冷静になってみると、それは「なくても大丈夫」どころか「買って邪魔」なものだったりするのですよね。

それほど、「便利」や「快適」が優先される時代なのでしょう。そして、「不便」「不快」を避けようとする。そのことよって、実は大切なものを見失っているのではないかと思うのです。

 

 近頃は、高齢者や障害者の人たちが、気軽に移動できるよう段差などを解消した「バリアフリー」が一般的になりました。ところが、山口を中心に千葉や東京で介護施設を展開する「夢のみずうみ村」では、「バリアフリー」ならぬ「バリアアリー」が売りなのだとか。この施設では段差、坂、階段など、日常にあるバリアをわざわざ配置しています。なぜなら、段差がない施設は、高齢者が自ら身体を回復させようとする意欲を奪ってしまうからです。

 人間は、バリアのない便利な機能に慣れてしまうと、それまでしていた動作ができなくなっていくのだそうです。だから、「できる動作」を訓練し、家で「している動作」を維持できるようにと「バリアアリー」は考えられました。もちろん、無理のない範囲で。手すりや介助も用意されています。考えてみれば、昔の人は長い道のりを歩いておられましたが、自動車移動に慣れてしまった私には、とても歩けそうにありません。便利な機能に慣れると、人間の機能というものは衰えていくのですね。




 哲学者の鷲田清一先生は、「便利で快適な都市生活は≪いのちの世話≫をする能力を喪失させた」と言われています。昔は、「産む・食べる・教える・片づける・争う・病む・歳をとる・死ぬ」といった人間の生活で必要な≪いのちの世話≫は、みんなで関わっていた。出産するときには、家族が産婆さんを手伝うのは当たり前。食料は、山や自分の家の小さな畑から。燃料の調達も、山で薪になるものを拾ってくる。子どもの教育もみんなで。排泄物の処理も肥溜めを作って肥料にしたり。病気や傷の手当て、介護や看護、看取りや葬儀、埋葬。近所の諍いを収めることも、自分で、みんなで関わってやってきた。だから、「こんな時には、どうふるまうべきか」をわかる人が多かったわけです。

ところが今や、そういうものは、お金を払ってプロに任せてしまうようになりました。便利にはなりましたが、山に入っても、何が食べられるかわからなくなる。出産の手伝いも、排泄物をどう処理するかも。停電になったら、ガスが止まったら、どうしていいかわからなくなった。そして、トラブルが起きた時に私たちができることは、「クレームをつけることだけ」になってしまったのだと。(『しんがりの思想』鷲田清一)

黒澤明監督の『夢』という映画には、名優・笠智衆さんの、「人間は便利なものに弱い。便利なものほど、良いものだと思って、本当に良いものを捨ててしまう」というセリフがありましたが、私たちは便利を追い求めることで、いろんなものを失ってしまったのではないでしょうか。



 

 私は、法事のお斎(食事)の席で、できるだけお酒を注ぎ合うようにしています(私はお酒が飲めないので、ノンアルコールビールがほとんどなのですが)。
 昔は、手酌で飲むのは非礼とされていました。しかし、「自分のペースで飲みたい」「人に迷惑をかけないように」と、注ぎ合う習慣が廃れています。ところが、思想家で武道家の内田樹先生は、

「自分のグラスが空になったら、面倒でも隣の人のグラスにビールを注ぎ、「あ、気がつきませんで・・・」と隣の人がビール瓶を奪い取って、こちらのグラスに注ぎ返すのを待たなければならない。「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである」(『ひとりでは生きられないのも芸のうち』内田樹)

と言われています。なるほど。尊重し合うことや、人は一人では生きられないことを学ぶために、注ぎ合う習慣があるのだとしたら、これは大切にしなくてはならない習慣なのでは…と考えたのです。

実は仏教にも、同じようなお話があるのです。ある人が、地獄に行ってみました。地獄とは、様々な苦しみが満ちあふれていると云われていますから、どんなところかと覗いてみると、意外なことにすばらしいご馳走が並んでいました。

「なんだ、地獄も結構いい所ではないか」と思って見ていると、食卓に置いてある箸に驚きました。何と三尺三寸、約1mもあったのです。長い箸ですから、ご馳走をつまんでも、自分の口に入れることができません。にもかかわらず、「これは俺のだ」「いや、俺のだ」と奪い合い、争い合っている。そのため地獄の住人はいつも腹を減らし、餓えに苦しんでいました。

今度は、極楽に行ってみると、極楽にも同じ様なご馳走が並び、やはり地獄と同じように長い箸があるのです。まったく同じ状況なのですが、極楽の住人はおいしそうに御馳走を食べていました。なぜなら、長い箸でつまんだご馳走を自分の向かい側にいる人の口に入れ、お互いに食べさせあっていたからです。そのため極楽の住人は、いつも楽しく満ち足りた心持ちで暮らしていました。

これが、『三尺箸の譬え』というお話です。では、私たちの生活は、どうなのでしょう。三尺三寸の箸が不便だからと、一人で食べることができる便利な機能を追い求めてしまった。そして、クレームを付け合い、争い合う地獄を作り上げてしまったのではないでしょうか。

 ある方が、「文明とは、人が一人で生活することを可能にするものだ」とおっしゃっていたそうです。便利さを追い求めることで、助け合いを不要にし、機会や経験を減らし、その心を失ってはいないでしょうか。支え合う喜びや温もりを、感じる機能が衰えているのではないでしょうか。

 「あったら便利」を追い求めることで、私たちは何を失ったのか。冷静に、立ち止まって考えなくてはなりません。■