2021(令和3)年5月   






 

私は法座でお話しするときは、聞かれる方に「なるほどなぁと思ったらうなずいてください」「わからないなぁと思ったら、首をかしげてください」と、お願いをしています。なぜなら反応があると、とても話しやすいのです。うなずかれると、こちらも乗ってきますし、首をかしげられると「伝わっていないなぁ」「では、こういう言い方をしてみようか」と工夫ができます。眠そうにされていると、自分の無力さを知らされますし、それは次に活かす材料になります。

ところが、黙って無反応にしておられると、本当に話にくいのです。「伝わっているのだろうか」「伝わっていないのか」と、戸惑いや迷いが出てきます。

よくミュージシャンが、「今日は、みんなのお陰でとても良いライブができました。ありがとう!」と言われますが、あの気持ち、とても良くわかります。みんなの反応が良かったら、どんどん気持ちが乗ってきて、いい演奏ができる。ところが、どんなに自分がノリノリで演奏しても、観客席がシーンとしていたらガックリきて、だんだんテンションも下がってきます。

やはり、反応があるということは、とても有り難いことなのですね。そして実は、私たちは周りの人の反応によって育てられ、生かされているのではないかと思うのです。




自分の好きなことや、感動したこと、喜びに共感してくれる人がいると、うれしいですよね。つらいとき、悲しいときにかけられる優しい言葉は、心に染みてきます。自分がしたことを、評価してくれる人がいるから頑張れる。気がつかなくても、誰もがそんな言葉に支えられてきているはずです。もしも反応してくれる人が周りにいなかったら…、とても寂しい人生ではないでしょうか。

でも、本当につらいことは、誰からも相手にされないこと。存在を無視されることです。イジメで一番つらいのは「シカト」、いないもののように扱われることだと言われます。幼児虐待などでよく聞くネグレクト(育児放棄)も、同様です。幼少期に存在を無視されることが、その後の成長に大きな影響を及ぼすことはよく知られています。

身近なところでは、LINEの「既読スルー」もそうでしょう。スマホのLINEという機能には、メッセージを送ると相手がまだ読んでいない時には「未読」、相手が読むと「既読」という表示が出るようになっています。「既読」なのに返事がないと、「嫌われているのかな」と心がざわつき不安になる。無視されたような、いや、自分の存在を否定されたような、そんな気分にさえなってしまう。これを「既読スルー」といって、多くの人を悩ませています。まあ、相手の性格や事情にもよりますから、大袈裟な反応なのかもしれませんが、気持ちはわかります。

やはり私たちは、周りの人の反応によって、自分の存在を確かなものにしているのでしょう。

 

夜空には、星が輝いています。しかし、星そのものが輝いているわけではありません。太陽の光が反射して、輝いているのです。ただ、ここで面白いのが、太陽の光は四方八方に広がっているはずです。スポットライトのように、星にだけ当たっているわけではありません。ではなぜ、星だけ輝いて見えるのでしょうか。実は、光を受け止める星があるからからこそ、光の存在が明らかになるのです。受け止めるものがなかったら、光は素通りしていくだけ。それが闇の部分です。私たちの存在も、受け止めてくれる人がいるからこそ、確かになり、明らかになるのです。まさに、「君たちがいて、僕がいる」のです。




 しかしそれは行き過ぎると、周りの目や顔色が気になり、場の空気に流されてしまうということにもなりかねません。「お前は、こんなヤツだ」と決めつけられ、可能性が狭められることもあります。性別や人種、階級などで差別される。周囲の偏見で、逆に存在を見失うことも起こっています。だからこそ、誰の、どんな反応やメッセージを受け止めるのかが、とても大きな問題となってきます。

 「南無阿弥陀仏」のお念仏は、阿弥陀様からの呼び声だと言われます。そしてお念仏には、「あなたが、敬われ尊ばれる仏にならなかったら、私は仏になりません。あなたが、地獄に堕ちるなら、私も共に地獄に堕ちよう」という願いが込められているのです。これを阿弥陀様の根本の願い、「本願」と言います。迷いを迷いと知らずに迷いを深め、自分を見失う私たちを悲しみ、慈しんでくださる願いです。私に寄り添い、導き、尊んでくださっているのです。それは、「君たちがいるからこそ、この私の存在があるのだ」というメッセージでもあるのでしょう。

しかしそのメッセージも、「はい、そのメッセージを私が受けとりました」と名乗る人がいなかったら、行き場がありません。宙に浮いてしまいます。呼び声は、私に呼びかけられていると受け止める人がいることで、初めて呼び声と認識されるのです。呼び声を受け止め、「南無阿弥陀仏」と称えることが、阿弥陀様の存在を確かにするのです。

親鸞聖人は、阿弥陀様からの呼び声を受け止められた方でした。同時にそれは、阿弥陀様から尊ばれ、願われている私を発見することでもあったのです。「この私は、そこまで阿弥陀様に大切に願われていたのか」自分の人生を確かにいただかれたのです。

「南無阿弥陀仏」のお念仏を称え、「君たちがいて、僕がいる」「阿弥陀様がいてくださるから、この私の確かな人生がある」と応じ合う中に開かれる、深く豊かな生き方が、私たちのところにも届けられています。■