2024(令和6)年6月 『大乗』
「大乗 ほうわ・HOWA・法話』





 

 

痛みの原因は

「コーチディベロッパー」という職業をご存知でしょうか。簡単に言えば、コーチのコーチです。
 スポーツ界には、選手を指導するコーチがいます。選手の成長には、コーチが欠かせません。ところが、コーチ自身の成長は本人の経験と学びに
ねられ、「どう指導すべきかを指導される」という視点はありませんでした。コーチの成長にもコーチが必要。そんな考えから、コーチを教えるコーチ、「コーチディベロッパー」が生まれたのです(ややこしくて、すみません)。今では日本スポーツ協会も、その養成に力を入れています。


大学、社会人ラグビーのコーチングスタッフを勤めていた今田圭太さんは、現在バスケ・野球など、異なる競技のコーチディベロッパーを勤めています。
 今田さんは、コーチにこう問いかけます。
 「あなたが組んだ、今日の練習の目的は?」
 「その目的に対して、練習は何点でしたか?」
 「今後より良くするためには、どうすれば良いと思いますか?」

 コーチ経験の長い今田さんには、これらの質問がコーチにとって心地良いものではないことは、分かっています。自身のコーチ哲学が揺さぶられる。積み重ねてきた経験を否定されたように感じ、プライドが傷つくこともある。そこには、大きな痛みがいます。だからこそ今田さんは、社会学者ジャック・メジローの「大人の学びは痛みを伴う」という言葉を大切にしているのだそうです。

コーチとして、あくまでも優先すべきは選手の成長。これまでの経験に固執すると、選手を一面だけで決めつけ、成長をげることにもなりかねない。握りしめた経験を手放すことに痛みが伴うとしても、それが選手の成長につながり、コーチとしての学びが深まるなら、その痛みは不可欠なもの。優先すべきは、コーチのプライドではないのだから。まさに「NO PAIN NO COACH(痛みがなければ、コーチではない)」なのだと。




この指摘は、コーチ論にとどまるものではないのでしょう。私たちは、経験や成功体験を重ねるほど、それを握りしめてしまいます。そして積み重ねてきたものが大きいほど、取り組んできた時間が長いほどに固執する。しかしどんな経験や成功体験も、それがいつも正しい答えになるとは限らないのです。環境も、状況も、相手も違うのですから。これまで積み重ねたものが、時に偏見を生み、学びをげることになりかねない。これは、仏法が「執着を離れよ」と説くことにも通じます。

但し、この事実を受け入れることは、とても難しいことです。なぜなら「これまでの積み重ねを手放せ」といううながしは、人生そのものを否定されたように感じてしまうから。しかし、その痛みを通すからこそ、開かれる世界があるのでしょう。まさに「大人の学びは痛みを伴う」のです。そして何より重要なことは、痛みを生む原因は学びでなく、あくまでも私のなさや執着なのだということです。




私たち大人は、子どもたちに「過ちは、素直に認めて謝りなさい」と言いますが、では大人である私たちが素直に謝れるかというと、なかなかそうはいきませんね。積み上げてきたプライドが邪魔をする。だからたとえ間違っていても、事実を受け入れられない。素直に頭が下がることは、大人であるほど困難になる。私自身をふり返っても、つくづくそう思います。

ただ、頭を下げることはできるのです。計算が働いて、それが自分の利益になるのなら幾らでも。でもそれは、自己保身のテクニックでしかありません。そんなことばかり上手くなるのが「大人になる」ということなら、それは寂しいことだと思います。

 




素直に受け止める勇気が、与えられる 

親鸞聖人は「正像末和讃」に、

「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし 虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『註釈版聖典』617ページ)

と、示されています。阿弥陀様のみ教えに出遇い、浄土への道を歩んでいても、私には真実の心などなく、嘘いつわりばかりの身であり、清らかな心などあるはずもないと。この言葉を、単なる謙遜や自虐と捉えてはなりません。

私の尊敬する先生は、阿弥陀さまとの出遇いを「それがたとえ、今までの体験によって培ったことを根底から否定し、ひっくり返すものであっても、それが事実である限り、事実を事実として受けとめ生きてゆく。その勇気としてはたらくものだ」と教えてくださいました。

 つまり阿弥陀さまの光に照らされることで、わが身の事実が受け止められるのです。握りしめていたものが、ほんの一面に過ぎなかった事実。そしてそれをすべてと思い込み、世界を決めつけていた嘘いつわりのわが身を。

しかしそれは謙遜や自虐ではありません。「何て小さなことにこだわり、何と小さな世界に閉じこもっていたのか!」と、素直に頭が下がった姿です。すなわち「虚仮不実のわが身」とは、自分が閉じこもっていた小さな世界が破られ、広く豊かな世界に出遇えたことへの感動の言葉なのだと、私は味わっています。

 とはいえ私はどうかと問われると、なかなか素直にはなれません。おまけに「浄土真宗に帰すれども」との言葉そのままに、手放したつもりがいつの間にか握りしめ、頭が下がったつもりが上がっている。こんなことの繰り返しです。でも、そんな私だからこそ、共に歩んでくださるのが阿弥陀様なのだという安心感も、親鸞聖人の言葉から伝わってきます。間違っていても、決して否定されない。「よく気づいてくれたな」と喜んでくださる。温もりに包まれているからこそ、受け止める勇気も与えられるのです。





聞いた仏法が邪魔になれば 

どなたが言われたのでしょうか。「聞いた仏法が邪魔になれば、身についた証拠である」という言葉を聞いたことがあります。本当は、自分のプライドを優先したい。自己保身のために誤魔化した方が楽です。そちらに流れそうな私に、これまで聞いてきた仏法が、南無阿弥陀仏のお念仏が「それで、いいのか」と問いかけてくる。そのうながしは、正直心地良いものではないけれども、無視できない。そう思えるようになったら、真に仏法が身についたということなのだと。この言葉には、うなずかされました。まさに、「仏法の学びには痛みが伴う」のでしょう。そして、その邪魔だという思いや痛みの原因は、あくまでも私の頑なさ。ならば、聞いた仏法をただ心地良いものにしている時こそ、注意が必要なのかもしれません。