2024(令和6)年7月 『大乗』
「大乗 ほうわ・HOWA・法話』





 

 

「迷わない先生」と「迷う先生」

 娘が中学生だった頃、対照的な二人の先生と出会いました。「迷わない先生」と「迷う先生」です。「迷わない先生」は、真面目で一生懸命。でも「これが正しい」「ルールではこうだ」と自分の思いを優先し、生徒の思いを聞こうとしない方でした。一方の「迷う先生」は、娘の担任の先生です。悩んでいた娘に「この子にとって、一番良いことは何だろう」と迷いながら、接してくださいました。本当に有難いことだと、今でも感謝しています。

 私たちは「迷ってはいけない」と考えがちです。何より仏教は「迷いの存在(凡夫)から、悟りの存在(仏)に成る」ための教えですから。しかし同時に、「迷いの自覚」を重視する教えでもあるのです。
仏教では、迷いを「無明」とも表します。というと、何も見えない暗闇で、手探りしながらさまよう姿をイメージする方も多いのではないでしょうか。ところが「無明」とは、もっと深い迷いなのです。
迷いの自覚があれば、人は道を探し求めます。謙虚に聞くことも、自分をふり返りもするでしょう。でも、迷っている自覚がなければ、一生懸命に突き進むだけ。人の思いを聞くこともなく、正しさを押しつけ、傷つけても気づきもしない。そんな確信に満ちた迷いこそ「無明」の姿だと教えられるのです。

 親鸞聖人が「日本のお釈迦さま」と尊敬された聖徳太子は、

「われかならず聖なるにあらず、かれかならず愚かなるにあらず、ともにこれ凡夫ならくのみ」
(憲法十七条、註釈版1436頁)

と示されました。私がいつも正しいわけではなく、彼がいつも間違っているわけでもない。ともにただの人間なのだと。私に「迷いの自覚」をうながし、人間というものの事実に立ち戻らせてくださる言葉です。同時に、人間を温かく見つめるまなざしが感じられます。

 




清浄なる世界とは 

「我々は、ウクライナの汚れを浄化するためにここに来た」
 これは2022年、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチが報告した、ウクライナ侵攻におけるロシア兵の言葉です。我々は正しく清らかで、逆らうヤツらは汚れている。その汚れを浄化するために殺すのだと。ゾっとしました。正義を振りかざす時、人はかくもためらいなく、冷酷になれるのかと。
 しかし歴史をふり返れば、同様の言葉を掲げ、人類は悲惨な過ちを繰り返してきたのです。ユーゴスラビア紛争の民族浄化、ナチスのホロコーストやカンボジアのキリングフィールド。オウム真理教のポアもそうでしょう。私たちの身近にも、正義の言葉で人を叩き、追い詰め、死に至らしめる「炎上」が起きています。正しいと思うから止まらない。迷わないから突き進むのです。真面目に、一生懸命に。
 阿弥陀さまの国土「浄土」も、清浄なる世界だといわれます。しかしお浄土は、汚れを排除する世界ではありません。親鸞聖人は、

「凡聖・逆謗、斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし」
                    
(『正信偈』註釈版203頁)

と示されています。どんな経緯を辿ってきた川の水も、海に注ぎ込めば皆同じ塩味になるように、凡夫も聖者も、逆らい謗る者も、一切の衆生(すべての生きとし生ける者)を受け入れ、清らかな仏と成らしめる世界、それが阿弥陀さまのお浄土なのだと。
 「逆らい謗る者でも」というところが、凄いですよね。しかし実はこれ、とても厳しいことでもあるのです。なぜなら、「あんなヤツと一緒にするな」と思ってしまうのが、私たちなのですから。





あんなヤツと一緒に 


 私たちの宗派には、僧侶養成のためのさまざまな機関や研修があります。中には、百日間の寮生活を送る過程も。その寮は、基本二人一部屋です。気の合う二人だと楽しい時間ですが、相性の悪い相手だと地獄のような日々になりかねません。私自身はその過程を受講してはいないのですが、つらく苦しい日々を味わった人の話を聞きました。但し、同部屋の相手も同じ思いだったでしょうが。
 その方は寮生活を終えた後、こう言われたそうです。「あんなヤツとだけは一緒に、お浄土に往きたくない」と。お気持ち、よくわかります。私も同じ状況なら、ついつい言ってしまいそうです。
 ただ、この話を聞いて、私は対照的な言葉を思い出しました。以前、ある人の不遜さを、私と先輩でグチっていた時のこと。先輩が、私にこう言われたのです。「あんなヤツとも一緒に、お浄土に往かなくてはならないのか」と。
 よく似た言葉です。でも、中身は全く違います。前者の判断基準は、好き嫌い。お浄土という言葉を使いながら、実は自分の思いが優先されています。しかし先輩が優先されたのは、阿弥陀さまの願いでした。「私には嫌なヤツとしか思えないが、共に願いをかけられている仲間なのだ」と、迷いの自覚に立ち戻る生き方を、リアルに示してくれました。あの衝撃と感動は、今でも忘れられません。
 しかしその感動は、後に私を苦しめることになりました。なぜなら私は正義感が強い上に、好き嫌いが激しく、心の狭い人間だからです。これが謙遜ではないのが、悲しいところなのですが。
 先輩の言葉に出会う前は「一緒に往きたくない」と、迷いなく排除したであろう私。しかし「それが阿弥陀様のお心なのか。自分の都合を優先しているだけなのでは。それは私が救われる根拠を、否定することになるのではないか」と、ためらい迷うようになりました。斬り捨てる爽快感を味わえず、悶々とするのが苦しいのです。でも、自分の思いにブレーキがかかることが、どこか嬉しくて。心の狭さは相変わらずですが、「悪口もこの程度にせねば」「トラブルにならぬよう、慎んで遠ざかろう」というたしなみも生まれてきます。
 私たちは、自分の思いを優先するためには、何でも利用するのでしょう。たとえ阿弥陀さまでも。そして自覚が無くとも。それが怒りや対立に火を注ぐものになり、エスカレートすれば、大きな悲劇にもつながりかねません。だからこそ、迷いの自覚に立ち戻らねばならない。そんなうながしが、お念仏に込められて、すでに私へ呼びかけられていたのでした。

 しかし、うながしに気づかされてこの程度。もし自覚のないままだったらと考えると、ゾっとします。そんな私のために向けられる温かなまなざしがあることを、また自覚せねばと思う今日この頃です。