2024(令和6)年5月 『大乗』
「大乗 ほうわ・HOWA・法話』





 

 

自分のイメージとは逆だった

長年、学校関係の役員をしていることで、多くの先生との出会いと学びをいただいています。中でも、ある小学校の校長先生の「学校に、強い口調でクレームを言う保護者がおられます。それは不安だからです。不安を隠そうと攻撃的になるのです。だからしっかり話を聞いて、安心させてあげなくてはいけません」という言葉が、強く心に残っています。不安なら素直に助けを求めればいいのに、不安だからこそ攻撃的になると校長先生は指摘される。なぜなのか。この問いは、とても大切なことを私に教えてくれました。

考えてみれば、ここ数十年「人に迷惑をかけるな」「自己責任だ」という言葉が、かつてないほどの大きな力で、私たちの社会を抑圧しています。長引く不況や、新自由主義の影響も大きいのでしょう。「迷惑をかけてはいけない」と委縮する人も増えました。私もこの言葉に圧力を感じる一人です。「迷惑をかける私は、生きていいのか」と考える人さえいます。強くなれ!自立しろ!それが、生きる資格であるかのように。だから弱みは見せられないし、助けも求めない。不安を隠そうと強がることで、攻撃的な態度をとってしまう。なるほど、そう考えれば腑に落ちます。その思いは、後に保護司の研修でダルク(薬物依存症からの回復をサポートする施設)を訪問したことで、確かなものになりました。

ダルクは、薬物依存者同士が自らの経験を語り合う中で、助け合い、支え合いながら更生していく場として設立されました。だからスタッフも薬物経験者です。共に支え合いながら、人間回復を目指すのです。

ところで、人間回復と聞くと「薬物の誘惑に負けない強い人間になる」というイメージを持ちませんか?私はそう思いながら見学していました。でも逆だったのです。ダルクの目指す人間回復とは「自分の弱さを認めること」、そして「私は助けてもらっていいと気づくこと」でした。

薬物の快感は脳に直接影響するので、理性ではコントロールできません。だから弱さを自覚し、薬物から距離をとるしかないのです。事実、スタッフの人たちも「私たちは今でも依存者です。目の前にあれば必ず手を出します。だから励まし合いながら、遠ざかるようにしているのです」と言われていました。

また薬物に依存する人は、家庭環境に問題のあることが多く、疎外感と孤独感を抱えているそうです。それは周りが信頼できず、敵に見えるということでもあります。だから弱さを見せられない。しかし人間である限り、いつも強くはいられないから不安がつきまとう。それを解消するために、薬物に手を出してしまう。薬物が生み出す全能感(何でもできるという感覚)を求めて。強さを欲することで不安になり、不安であるがゆえに強さを渇望する。まさに校長先生の指摘に通じます。

 でも人間って、本来弱さや愚かさを持っているものでしょう。「あの人にも悩みがあるんですね。人間っぽい一面を知って、身近に感じるようになりました」といった言葉を、時折耳にします。悩みや欠点を持つからこそ「人間くささ」があり、それを認め合うところに「人間味」が感じられるのです。

この事実を見失い、強さを生きる資格のように思い込むと、歪みは必ず生まれます。そもそも「自己責任」と言い出してから、皆が責任感を持つ社会になりましたか?責任をとらされたくないから、最初からやらない。失敗は隠ぺいするか、誰かのせいにする。そんな無責任で歪んだ状況が広がっているようにしか、私には見えないのですが。

そして不安はますます強まり、せめて自分より下を見つけて安堵したいと、マウントがとれる相手や誹謗中傷できる人を探す。そんな様相さえ目にします。弱い者が弱い者をたたき、更に弱い者をたたく。自分が弱い立場になった時のことを思うと、また不安は加速していく。この連鎖から自力で抜け出すことは、困難です。どんなに強くなろうと、自分より下を見つけようとも、落ちる恐怖はつきまとうのですから。

だからこそダルクは、本当の安心感を求めて「弱さを認める」「助けを求めていいと気づく」という取り組みをしているのでしょう。「落ちたくない」と不安を抱えた生き方から、「落ちても大丈夫」と言える場を作る。「生きることに、そもそも資格が必要なのか」と、これまでの考えを問い直す。そんな、人間の事実を回復する取り組みを。

しかしこれもまた、道のりは困難です。自分の愚かさと向き合うのは、やはりつらい。目を逸らす方が楽ですよ。疑うのは簡単ですが、信頼するには勇気が必要になります。ただ、同じ苦悩を抱えた人たちが側にいて、励まし合い、いたわり合いながら共に歩めたら、それはとても大きな力になるはずです。

 




温もりと手触りのある生き方を 

ダルクの取り組みは、私にとって衝撃的なものでした。でもよくよく考えれば、どこか親しみを感じるものでもありました。なぜならそれは、親鸞聖人の歩みと重なるからです。

親鸞聖人は、弱さや愚かさを「強さで克服する道(自力)」から、「受け入れ、素直に助けを求める道(他力)」へと歩みを転じられた方でした。人間の事実、凡夫(ただひと)に立ち返り、阿弥陀さまへの信順を通して、新たな生き方へと踏み出されたのです。

「どんなあなたでも摂め取って捨てない」という阿弥陀様の本願と出遇うことで、大地に受け止められるような安心感が与えられる。弱くても愚かでも切り捨てられないから、自分の姿と向き合える。「それでも大丈夫」という声に励まされ、また立ち上がることができる。そんな親鸞聖人の歩みを通して、気づかされるのです。私たちは阿弥陀様から「弱くていい、助けを求めてもいい」と呼びかけられていることに。そして、その呼び声である南無阿弥陀仏のお念仏は、すでに届けられていたのでした。

この呼び声を拠り所として生きるからこそ、周りの人に助けを求める勇気も生まれてくる。不安の連鎖から、ともに凡夫としていたわり合う連鎖へと踏み出すこともできるのでしょう。

 ならば、お念仏をいただく私たちだからこそ、この社会に発信できることがあるのではないでしょうか。人間の弱さ、愚かさと向き合われた親鸞聖人の歩みの確かさを。安心して「助けて」といえる世界と出遇うことの尊さを。不安を抱えた凡夫が、それでも「生きていいんだ」と実感できる人生の豊かさを。そこに人間であることが回復され、温もりと手触りのある生き方が開かれていくことを。■