私の町で以前、ある有名ジャーナリストの講演があり、その要旨が新聞に掲載されました。 「これから日本は大変なことになる。景気は悪い。TPPの問題もある。北朝鮮もいるし、韓国、中国とは仲が悪い。アメリカは当てにならない。これから日本はもっと強くならなくてはいけない。一人ひとりが、自立して強さを求めていかなくてはならない。」と。
私はそれを読みながら、何か違うのではないかと思ったのです。なぜなら、人間がどんなに強くなったとしても、大自然の前ではちっぽけな存在でしかなかったということを、私たちはあの東日本大震災で思い知らされたのではなかったでしょうか。
人間は弱い。ちっぽけだ。だからこそ、助け合わなくてはならない。支え合わねばならない。その事実を突き付けられたからこそ、震災直後に「絆」という言葉が叫ばれたのでしょう。そこにこそ「有難う」「お互いさま」といった、人と人、そして国と国との出遇いを開く、心豊かな言葉も生まれてくるのではないでしょうか。
何より、強さや自立を追い求めて、どんな世の中になったのでしょう。先日、こんな話を聞きました。あるおばあちゃんが、都会に住んでいる息子さんのお連れ合いから「ばあちゃん、私たちは子どもの世話になるつもりはありませんから…、あなたのお世話もいたしません!」と言われたというのです。
正直、ゾッとしました。「私は人に迷惑をかけていない。だから、誰からも迷惑をかけられたくない。」そう言い放ち、親を切り捨てる。怖ろしいと思いませんか。これは自立ではありません。孤立です。ところが現代社会では、こんな感覚が当たり前のように広がっているようです。
でも、迷惑をかけずに生きられる人間って本当にいるのですか。みんな知らず知らずに迷惑をかけ、心配をかけ、許されて、ここまで育てられてきたはずです。確かに今は便利になって、お金さえ出せばいろんなサービスを受けられるようになりました。では、そのシステムを作ったのは誰ですか。一人でこの世の中を作っているわけではないのです。自立といっても、支えて下さる大地がなかったら、立つことなどできないのです。
少年ジャンプで連載中の漫画『ワンピース』の主人公ルフィに、こんな名言があります。
「俺は○○ができねぇ。△△もできねぇ。
俺は、人の世話にならねぇと、生きていけねぇ自信がある!」
これは、わがままな言葉ではありません。感謝の言葉です。
「私には、できないことがある。あなたのお陰で私は生かされている。あなたがいてくれて、うれしい。ありがとう。」
こんな言葉をかけられたら、どうですか。シビれますよ。私は必要とされている。私は求められている。私はここにいていいんだと思える。
逆に「アンタがいなくても、オレは生きていける。アンタがいてもいなくても関係ない。」と言われたらどうですか。ガックリきます。存在を否定されたようにも、感じられます。
そう考えると、「有難う」という言葉は人を生かす言葉なのですね。そしてそれは、自らの弱さを受け容れなくては言えない言葉でもあるのです。弱さを知るからこそ、心から感謝できる。「お互いさま」と人を思いやり、優しくなれる。だからこそ、私たちはつながりを実感できるのです。
弱さを受け容れられない人ほど、強がります。自分を大きく見せようとする。素直にごめんなさいが言えないし、人に責任を押し付ける。「自虐的」という言葉も、そんな生き方から生まれきたのかもしれません。
親鸞聖人という方は、人間が本来持っている弱さ、愚かさ、悲しさ、切なさと深く向き合い、人生を歩まれました。そこから、この私を丸ごと支えて下さる阿弥陀如来の大地と出遇われたのです。
浄土和讃に「法身の光輪きわもなし」とあります。阿弥陀様の光は世界中至り届かないところはないという意味ですが、聖人が実際に世界中を飛び回って確認されたわけではありませんし、できるはずもありません。では、なぜそう言えるのか。それは、光から一番遠く深い、愚かさや罪の場に自らの身を置き、それでもなお阿弥陀様の光は至り届いていると実感されたからこその言葉なのでしょう。「我こそ光の真ん中にあり!」と自分を誇り、人を蔑む者にはこの感動はわからないと、ある先生に教えられ、ドキリと冷や汗をかいたことが今でも忘れられません。
聖人は生涯を通して、人間の奥底にまでも寄り添い、支えて下さる世界と出遇われました。それは、この私をも同じく等しく願われる世界です。だからこそ、間違いだらけで、迷惑かけ通しの人生であっても、それを受け容れ、素直に謝り、お礼が言える。そんな人生を歩むことができるのではないでしょうか。そこにこそ、心豊かな生き方が開かれていくのだと教えられるのです。■
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