2015(平成27)年『大乗』11月号
「みほとけとともに」



 




親鸞聖人は『教行信証』信巻に、涅槃経を引用して「無慚愧は名づけて人とせず、(略)慚愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」(275頁)とあらわされています。慚愧とは、天に恥じ人に恥じるということですから、自らの生き方を振り返り、深く恥じ入ることです。その慚愧の心があるからこそ人であり、父母・兄弟・姉妹があるのだと。でも、おかしな表現だとは思いませんか。私たちは元から人に生まれていますし、父母・兄弟・姉妹というのは、慚愧しようがしまいがあるものです。ところが、「慚愧あるがゆえに」と言われているのは、一体どういうことなのでしょうか。

 私の大好きなロックバンド・サンボーマスターのボーカル山口隆は、『手紙』という曲で「いつもこの僕はあなたの事を/好きだという一言で片付けて/本当のあなたの意味は/俺はちっとも知ろうとしなかったんだよ!」と歌っています。いくら顔を突き合わせていても、安易で定型な一言で決めつけているならば、出遇っていないのも同じだということなのでしょう。そんな自らの生き方に気づき、恥じ、深く慚愧することが、本当の出遇いをひらく始まりとなるのだと教えられました。

 さて、『ハンナ・アーレント』という映画が話題になったことをご存知でしょうか。ユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントの苦悩を描く、実話に基づいた作品です。彼女はナチス戦犯アドルフ・アイヒマンの裁判に立ち会いました。アイヒマンは、数百万人の人々を強制収容所に送る指揮を執った、ユダヤ人追放のスペシャリストです。彼は、多くのユダヤ人の憎悪の対象となりました。しかしアーレントは、彼は残虐な殺人鬼でも悪の権化でもなく、平凡で、上司の命令に忠実な官僚だと感じたのです。ユダヤ人社会からは「大量殺戮が凡庸なものだったというのか」「ナチの犯罪を軽視し、アイヒマンを擁護するのか」といった怒りと非難の嵐が起こりました。

 アーレントは軽視したわけでも、擁護したわけでもありません。「悪の凡庸さ」つまり凡庸な人間が思考を停止して、ただ命令に忠実に数字を積み上げていくことが、未曽有のホロコーストを引き起こしたのだと指摘したのです。官僚的に事務的に、上司の指示のままに。安易で定型なやり方で、アイヒマンはユダヤ人の大量虐殺をすすめました。痛みも悲しみもなく、そこにあるいのちの叫びや温もりを想像することなく。生真面目に淡々と。その時、いのちは単なる数字となったのです。

 ごく普通の人間が巨悪になり得るというアーレントの指摘は、誰でも思考を放棄すればアイヒマンのように行動する可能性を突き付けたということです。まさに「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」(歎異抄第十三条)ではないですか。
 痛みや悲しみ、想像力を忘れる時、私は人でなくなるのでしょう。迷いの姿に目覚め恥じるとき、初めて人となり、周りの人々との出遇いが開かれていく。今まで見えなかったいのちの輝きに気づく。それがまさに「慙愧あるがゆえに、父母・兄弟・姉妹あることを説く」ということではないでしょうか。

 親鸞聖人は「いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」(唯信鈔文意708頁)といわれています。「いし・かはら・つぶて」とは、石ころのことですが、単なる石ころをいうのではありません。落ちていても気づきもされないもの、あってもなきに等しいもの、誰からも見向きもされず無視されているものをいうのです。いのちをいのちとして尊ばれることもなく、なきに等しく扱われているいのちがある。そのいのちに寄り添い「われら」として共に生きられた聖人の歩みは、「いし・かわら・つぶて」を「こがね(金)となさしめん」すべてのいのちを輝かせる阿弥陀様のはたらきによるものでした。まさに阿弥陀様からの呼び声、お念仏を聞くことで、慚愧すべき我が身に気づかされ、ひらかれた世界だといえるでしょう。


 考えてみれば、私たちの日常には経済用語が溢れています。人は「人材」魚は「海産資源」、文化は「観光資源」で学びは「投資」。牛や豚、野菜は「生産」するものだそうです。それらはすべて金額、数字で価値を測る言葉です。私たちは、数字や安易な定型の言葉で決めつけて、そこにあるいのちを見失ってはいないでしょうか。自らの生き方を振り返り、深く恥じるいとなみをしているのでしょうか。
 お念仏を忘れ慚愧を忘れる時、私もまたアイヒマンのように、生真面目に淡々といのちを踏みにじるのでしょう。それは、自らのいのちの輝きを見失うことでもあるはずです。そんな私を見捨てることなく、願い続けてくださる世界があることの重さを、深くいただかなくてはなりません。■