先日教科書検定の際、竹島問題に関しての記述が話題となった。文科省のあまりにも幼稚な対応に驚きはしたが、ここではこのことには触れない。触れたいのは『報道ステーション』でのワンシーン。教科書検定関連として「強制連行≠竍従軍慰安婦教科書≠ノ関する記述を無くした教科書が目につきますが」という記者の質問が、自民党の平沢勝栄議員に向けられた。彼は一言。
「これで正常に戻ったのではないですか。あれは他国に対して気を遣って載せていただけだから。」
ということは、過去を反省して受け止めようという意図ではないということですね、…平沢さん。反日デモも起こるはずだ。これだけ挑発するんだから(いろんな要素を差し引いても、そう思う)。
それに北朝鮮が、拉致問題に対してこんな発言をしたらどうなるだろう。一番うるさく怒り出すのは拉致議連の中心メンバーである貴方じゃないですか?平沢さん。そしてこの発言が問題にもならないんだよなあ。この社会は歪んでいる。つくづく思う。
さて、今回の主題はそんなことでもない。コミュニケーションということ。「気を遣ってのことだ」などと言うが、気を遣うことは人間関係の基本中の基本です、平沢さん。「何でも言い合える仲」なんてのを言葉通りに鵜呑みにしたら、きっと人間関係は成立しない。誰もが何かしら相手を思いやりながら、気を遣いながら言葉を選んでいるはずだ。それがたとえ、どんなに気が合う友達だとしても。
以前子どもたちと『ドラえもん』を観ていたら、親友になれる機械≠ネるものが出てきた。その機械を偶然スネ夫くんが手に入れる。彼は「よし、ドラえもんと親友になろう!」と企んだ(アレッ、この文章おかしくない?だって、親友になろうとすることを企む≠ネんて、普通言わないよね。でも、スネ夫くんは企むのです)。
そして「ねえ、ドラえもん。みんながボクの言うことを聞くようになる機械を出してよ。それが親友ってもんだろう?」と叫ぶ―。
スネ夫くんにとって親友とは、思い通りになる存在をいうようだ。でも、親友ってそんなものなの?喜びや悲しみを共にしてくれたり、「お前最近おかしいんじゃないか」と心配したり、時には諌めてくれたり。友達ってそんな関係なんじゃないの?「何でも言い合える仲」っていうのは、あなたのことを思うからこそ、耳が痛いようなことでも言い合える、そんな仲ということだ。思い通りになる存在を友達と思っているならば、勘違いだから考え直したほうがいい。そんなの支配・被支配の関係でしかないのだから。
コミュニケーションとは、本来面倒臭いもの、ややこしいものだ。なぜなら、どんなに親しい仲であっても、同じ国に住んでいても、同じ民族だと(強引に)カテゴライズされたとしても、最終的には、
「君は君で 僕は僕」 (『掌』Mr.Children 作詞 桜井和寿)
なんだから。人それぞれ考え方も、捉え方も、感じ方も違うのだから。ちなみに、この曲はこう続く。
「そんな当たり前のこと。何でこんなにも簡単に、僕ら。
見失ってしまえるんだろう。」(『掌』Mr.Children 作詞 桜井和寿)
本当にそうだよね。そんな当たり前のことを、僕たちは簡単に見失ってしまう。でも、それを認めるってことは、時には気を遣わなくてはならなかったり、面倒くさかったり、時にはややこしいことも受け入れなくてはならない。なぜなら、「君は君で僕は僕」なんだから。「それが当たり前のこと」なんだから。
人の心は、簡単には割り切れない。人の心はややこしい。やられたことはいつまでも憶えているし、自分がしたことはすぐに忘れちゃう。面倒臭いんだよ、人間関係って。でも、それをもう一度前提にして考えてみよう。そして、面倒臭さを大切にしよう。それが他者とコミュニケーションをとるということだから。それが、他者と出遇うということなのだから。
「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、
すなはちわが善き親友なり。」(『大無量寿経』)
法とは真実である。人がそれぞれに、関わりあいながら、影響しあいながら、共に生きている。それが仏法の真実であり、他者不在の自我のみに生きる在り方を迷いという。勿論仏は迷っている私たちに、「オメエなんか、友達じゃねえよ」とは言われない。善き親友でありたいからこそ、迷いを深めていく私たちに、耳の痛いことを呼びかけ続けておられるのだ。■
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