「まず、出来ることから」私たちはこの言葉を身の回りでよく耳にするし、前向きな良い言葉として使う。ところが、中田国連ボランティア名誉大使はこの言葉に疑問を投げかけているそうだ。1993年4月カンボジア総選挙の監視員としてボランティアに従事中、武装集団の銃弾に倒れ亡くなられた中田厚仁さんのお父さんであり、いま世界中を駆け回りボランティアの推進に尽力されている、あの中田武仁さんがだ。
「出来ることから」という言葉の裏にある、危険性を心配しておられるとのこと。学校生活では、やはり勉強が主体。テストは○か×の世界。「できる」と点数がもらえ、失敗すると0点。すると、「できる」ことと、「できない」「失敗する」ことが両極端になり、生活のすべてになってしまいがちになるのではないか。「できることだけやる」ということに胸を張り、「やっかいなこと、失敗しそうなこと、できないことには取り組もうとしない」。いや、すぐにそれを切り捨てて、「それが取り組まなければならないこと、やるべきこと」であるかどうかの判断すら拒否してしまうと心配されてのことだという(どこでこのことを読んだのか、残念ながら忘れてしまったけれど)。
そういえば、以前NHK教育テレビの『しゃべり場』という番組で、こんなことを言う中学生がいた。
「僕は平和運動も、環境問題への取り組みも信じない。なぜなら、僕は一生懸命にこの問題に取り組んできた。でも何も変わらないじゃないか。だから、そんなものは信じない。」
「一体どれくらい取り組んだの?」
「一年間!」
「・・・・・」
オイオイ、それ位で変わるのなら、とっくに変わってるよ。
僕たちは結果を追い求めるあまり、「できる」「できない」を取り組みの基準にしてはいないだろうか。確かに、よくアリガチな励ましの言葉って「あきらめなければ、夢は必ずかなう!!」。気持ちはわかる。でも残念ながら、そんなの誰も保障してくれないんだ。もう一度考えてみよう。取り組みへの一歩は、「できるか」「できないか」だったのだろうか。いや違う。それが大切なこと≠セと知らされたからだ。
先日も某組の研修会で、あいも変わらず「煩悩がなくならない限り、差別もなくならない」という意見が出たと聞く。「だから、取り組む必要なんかない」とでも言いたいのかな。悲しいよなあ。傷ついてきた人たちは、この言葉をどんな思いで聞くんだろう。
「そこにあるいのちの叫びが聞こえないのか」といううながし≠ェある。特定犯人を吊るし上げたり、臭いものに蓋をして安心したがる私に、「縁あらば何でもやりかねない、お前の問題だよ」という、まことなる世界からのうながし≠ェ。だから、やりたくなくても、面倒くさくても、取り組まざるをえない。それが大切なこと≠セと知らされたのだから。
「うんざりなんて してて当たり前 絶望なんてしてて当たり前
あきらめるのは簡単だ 簡単すぎてつまらない イェー 腰は大丈夫」
(『一人で大人 一人で子供』 ザ・ハイロウズ)
何をなしたかではない。何に向かって歩むのかだ。できなくても、そこから生まれる慚愧が、悲しみが、怒りが、その人の大切なことを明らかにする。ため息をつく後姿が、飲んでくだを巻く姿が、その人が願っていた世界を知らしめる。そして、その世界が僕らを突き動かす。きっと中田武仁さんもそうなんだろう。
でも開き直りは、他者の歩みをも止めてしまうんだ。もちろん慚愧も、悲しみも、罪悪感さえも生み出さない。そして大切なことを見えなくさせる。残るのは脱力感だけ。本当だよ。国会中継を見たらいい。自覚的かどうかはわからないけれど、小泉首相はそれをうまく利用しているから。
「陽気なひとも楽しいが 胸のうちに
深い悲しみを抱いて 語りかけてくださる出遇いが
無感動な私を 根底から揺り動かす」(『骨道を行く』悲の器 浅田正作)
真宗の救いは、皆、同じく、斉しくという無条件の救いだ。だから、救われるために歩むのではない。歩み出した者が救われるのでもない。すでに願いは届いていた。既に如来の手の中にあった。そのことに気づくとき、同時に自らのおぞましさ、恥ずかしさに歩みだすのだろう。「できる」かどうかではなく、救われる者としての自覚のもとに。知らされた大切なこと≠フために。「もとあしかりしわがこころ」を「いとふ」歩みとして。■
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