2024(令和6)年『築地本願寺新報』4月号「法話」



 



 

「背中」は、単に身体の一部分を指すだけではなく、様々な意味が込められる言葉です。例えば「背を向ける」といった時には後ろを向く以外に、無関心や反抗的態度、また見捨てる行為が表されます。「背中を丸める」には猫背になるだけでなく、落胆や悲しさ、ひもじさが感じられますし、「押される」なら励まされる意味に、「預ける」では信頼し任せることになります。

また背中は、自分では見ることができません。無防備に人に晒し、隠せない箇所でもあります。そこから、その人の本質や生き方を表す意味にも使われます。「背中を見せる」とは自らが行動で示すことですし、「語る」では、あえて言葉にせず生き方で伝えることになります。アニメ『ルパン三世』の主題歌には「背中で泣いてる男の美学」という歌詞がありますね。心で泣きたくとも、腹にしまって笑顔を見せる。それがオレの美学。でも後ろ姿には、隠し切れない本心がにじみ出るということでしょうか。そんなカッコ良さに憧れて、近づこうとすることを「背中を追う」といいます。

ところが近頃は、このような言葉を聞かなくなりました。「背中が語る」ものを感じとる力が、衰えたからでしょうか。それとも学びたいと思わせる生き方を、見せる人がいないからなのか。そもそも、生き方や本質を問うことさえなくなった気がします。

ただどんな時代にせよ、私たちが背中を晒していることに変わりはありません。日本人は、人の目を気にする傾向が強いと言われます。ならばもう少し、見られていることを、つまりは生き方を気にした方が良いのでは。いやもしかすると、自分の美学よりも「みんながやっているならオレも」という感覚が優先され、何が恥ずべきことかを見失っているのかもしれません。そんな姿を、誰も「追いたい」「学びたい」とは思わないですよね。

私には、自分の背中は見えません。つまり私がどう生きているのかは、自分では分からないということです。見えているのは人の背中だけ。ならば、どんなまなざしを意識し、誰の「背中を追って」いるのか。どうありたいと願い、どうあれないと悲嘆しているのか。そんな態度こそが、自分の生き方を明らかにするのではないでしょうか。

親鸞聖人は、ただ阿弥陀様のまなざしを意識され、その願いに生きようとされた方でした。阿弥陀様は、どんなに愚かな私でも「背を向け」ることなく、寄り添ってくださる仏様です。だから、安心して「背中を預ける」ことができる。同時に、より良い生き方へと踏み出すよう「背を押して」くださる存在でもあります。時には、自分の有り様に「背を丸め」るような落胆を抱えても、その事実に向き合う力が与えられる。そんな阿弥陀様に支えられる人生の豊かさと確かさを、親鸞聖人は教えてくださいました。その生き方に導かれ歩まれた人たちの歴史が、私のところにまで至り届けられているのです。

届けられた歴史から何を感じ取っているのか。私は誰の背中を追っているのか。深く問い直さねばなりません。私もまた、背中を晒して生きている一人なのですから。■