2025(令和7)年『築地本願寺新報』5月号「法話」



 



 

お坊ちゃんとは何か

 スペインの思想家オルテガ・イ・ガセットが、「お坊ちゃん」とはどんな存在かを定義しています。それは家庭内でのふるまいを、外でもできると信じる者のことなのだと。
 家庭とは、外では失礼で恥ずかしいとされる行為も、大目に見てもらえる特別な場所です。「何で起してくれなかったんだ!」と逆切れしたり、靴下を脱ぎ散らかしゴミを放りっぱなしにしても、結局は許されるのが家庭という場。しかし、外ではそうはいきません。にも関わらず、外でも同じくふるまう人を、オルテガは「お坊ちゃん」というのです。そしてそれは、他の国や文化に対する態度でも同様なのだと。自分の価値観のみを正しいと信じるのは、成熟しないグロテスクな有り方だと指摘しているのです。

 確かに自分の常識や正義が、他者にも通用するという思い込みは危険です。それぞれの背景、事情は違うのにも関わらず、それを踏みにじり、一方的に価値観を押し付けることになるのですから。される方は、たまったものではありません。
 同時に「お坊ちゃん」とは、自分に向けられる温かな想いを見失った者でもあるのでしょう。家庭内における許しは、家族の温もりによるもの。それを当たり前と享受するならば、その有り難さと豊かさに気づくことはできません。
 オルテガが、約百年前に指摘した未熟でグロテスクな有り方は、残念なことに今日ますますエスカレートしているようです。

 仏様は、「如実知見」ありのままにものを見る智慧を持たれた方だと言われます。逆に考えれば、仏様ではない私たち凡夫は、ありのままに見ることができない、どこまでも「お坊ちゃん主義」から逃れることはできないということなのでしょう。それは、開き直りを促すものではありません。自分が見ている景色は、自分の価値観という色メガネを通したものでしかないという謙虚な自覚を持ち、安易に決めつけず問い直す。折に触れ、改めて問い直す。その営みこそが、想像力や共感力を育む、成熟した大人への歩みなのだと教えられるのです。


 常に危険を感じる賢者と 自分を疑わない愚者

 オルテガは、こうも言います。「賢者は、自分がもう少しで愚者になり下がろうとしている危険をたえず感じている。/ところが愚者は自分を疑うことをしない。彼は自分がきわめて分別に富む人間だと考えている」(『大衆の反逆』)と。つまり「私は成熟した大人だ」という思い込みもまた、「お坊ちゃん主義」であり、私の有り様にたえず危険を感じているからこそ賢者足りうるのだと。

 親鸞聖人という方は、どこまでも「私は凡夫であり、愚者である」という立場を崩されることはありませんでした。それは阿弥陀さまの温かな光に照らされ、自分の愚かさや弱さと、真摯に向き合い続けられた姿です。 まさに、オルテガのいう「賢者」の姿勢そのもの。だからこそ、他者の弱さや悲しみに寄り添える。与えられた温もりを味わえる。
 親鸞聖人のものの見方が深く豊かな理由は、この愚者の自覚にこそあるのでしょう。■