2014(平成26)年4月
山口新聞『東流西流』




 いつからか自己責任という言葉が頻繁に使われるようになりました。
 責任を持つことは大切ですが、過剰な責任追及の結果、誰も責任をとりたがらない世になりました。
 余計な事をすれば睨まれ、失敗すれば叩かれる。いつクレームが来るかと怯え、萎縮する場面をよく見かけます。
 一昔前はお互い様と責任を取り合う大人の態度がありましたが、今や責任は押し付け合うものになりました。これではのびやかで風通りの良い世の中は、生まれるはずもありません。
 そして責任を押しつけられた者だけが集中砲火を浴びる、まさにイジメの構図がマスコミや政治手法にまで取り入れられています。学校のイジメが無くならないはずです。
 封筒にはのりしろという部分がありますが、余分にはみ出すからこそ封ができ繋がれるのです。萎縮しはみ出すことを怖れるなら、ますます孤独で生き辛い世の中になることでしょう。

 日本のお釈迦様と敬われる聖徳太子は「私がいつも正しいわけではなく、彼が間違ってばかりでもない。共に凡夫でしかないのだ」と言われます。ここには卑屈や自虐はなく、人間の事実に立った謙虚さがあります。この態度が大らかさを生み、はみだしを赦し責任を分ち合う、心豊かな生き方を育んだのではないでしょうか。

 どうやら人間の事実に立ち返る必要がありそうです。■