2012.1.30


五木寛之『親鸞〜激動篇』絶賛発売中 !
早速、読破しました。







1月14日に、五木寛之さんの『親鸞〜激動篇〜』上下巻が発刊されました。御正忌報恩講も終わり、ホッとしたところで早速読破。いやいや、大変面白く読ませていただきました。
 









これはあくまでも小説であり、フィクションです。鉄杖や黒面法師など、実在ではない登場人物も数多く出てきます。しかし小説という手法は、作者が出遇っている「親鸞」とは、どんな「親鸞」に魅かれているのかという、自身の問題意識や、人生への向き合い方が直接反映されるわけですから、逆に誤魔化しが効かない厳しいものだと思います。資料や文献に逃げて、お茶を濁すこともできないわけです。ということで、「物語の力」について少し触れますと、児童文学研究者の清水眞砂子さんは、

 あるときワシントンのスミソニアン博物館を訪ねたのですが、私はそこで、黒人の歴史の部屋を時間をかけて丹念に見て歩きました。そこには、アフリカから連れてこられたときの状況だとか、奴隷制度の中での黒人のくらし、それから一応奴隷制度が廃止になった後にどういう状況が生まれたか等々、実に詳しく、私から見てかなり公平といいますか、少なくとも黒人の側にできるだけ立とうとして展示・解説されてありました。たいへん良心的な展示だったという気がしております。

 でも、何かもうひとつわからない。事実を証拠だてるものがいっぱい並べられているんですが、当時の黒人たちの息づかいとか、悲しみとか、喜びとか、心の中で起こっていることが全然伝わってこないのです。隔靴掻痒とはまさにこのことか。私はいらだちながら、ある一冊の本をしきりに思い出していました。それは、『ミス・ジェーン・ピットマン』という福音館書店から出ている本です。

 ここには一人の黒人の女性の人生が書かれているだけです。百歳くらいまで生きたたった一人の女の人のことを書いて、しかもそれはフィクション、作り物ではあるのですが、その一冊のフィクションを読んだほうが、実は黒人の歴史なり、黒人の暮らしぶりなりがわかってくる。ひしひしと伝わってくる。どんなふうに感じ、どんなことに、どんなふうに怒り、どんなことに喜んだか。そうしたことが鮮やかに、手に取とるように伝わってくるのです。私は館内を歩きながら、これだけの事実を並べてもなお一冊の物語に届かないと言うことがあるのだ、とくり返し心の中でつぶやいていました。言いかえれば、一冊の物語というのはそれくらいの力をもって私たちに働きかけてくるのだということをこのとき体験したわけです。 (『幸せに驚く力』かもがわ出版)

と言われています。

 私は(そして、清水さんも多分)研究者の方々の、コツコツと積み上げていく地道な作業を否定するつもりはないのです。いえ、それどころかリスペクトしております。物語も実は、そんな地道に積み上げられたものの上に成り立っていることも多いのですから。しかし、物語には本当に大きな力があることも、忘れてはならないと思います。温もりや悲しみ、怒りや苦悩は、物語だからこそ伝わるのです。フィクションだからとバカにはできませんし、フィクションであるからこそ、真実が伝わることもあるのです。(「方便」とは、まさしくこのことを言うのだと、私は勝手に思っています。)
 しかし、同時に大きな力だからこそ、使われ方によっては怖ろしいことにもなりかねない。そこへの配慮も必要です。









さて、『親鸞〜激動篇』では、前回以上に親鸞は葛藤し、苦悩します。その問いについても、非常に面白く読ませていただきました。特に越後、関東に生きる人々から投げかけられる素朴で鋭い問いが私に向けられたらと思うと、お坊さんの立場として冷や汗が出ます。
 しかし、親鸞は簡単に答えは出しません。口ごもり、深く心に持ち続けます。近頃流行っているテレビの相談番組だったら怒られてしまいそうですが、でもそこがまた良いではありませんか。その場しのぎの言葉に逃げず、相手の状況を慮り、それでも自分の拠り所とすべき場所からぶれない。そんな苦悩を通すからこそ、人の心を深く揺さぶる言葉が生まれて来るのではないでしょうか。私なんかには、そんな言葉は到底語れそうにはありませんが、そんな姿勢だけは持ち続けたいと思いながら読みました。

 「あとがき」には、この『激動篇』は、親鸞の生涯を三つの時期に分けた中の中期、越後から関東の時代を描いたとありますが、後期の京都時代を描く続編はどうなるのか。気になる所です。
 ぜひ、ぜひお薦めいたします。■