昨年末に勤めました御正忌から、本堂の阿弥陀様が光輝くように、ライトアップしました。なぜ、ライトアップしたのか。その思いについて、ご説明させていただこうとおもいます。
以前テレビを見ていたら、夜トイレに行くのが恐ろしいという小学生の女の子を、何とかしようという企画がありました。彼女は、暗いから怖いというだけではなく、「お仏壇のある部屋の前を通らなくては、トイレに行けないのが嫌だ」と。つまりお仏壇が恐ろしいというのです。確かに、お仏壇は死を連想させますから気持ちはわからなくはないのですが、今の時代を象徴しているようで寂しい思いがしました。
でも昔は、生活の中に金色や赤色、電球というものはありませんでしたから、家の中で一番明るい場所というのは…、実はお仏壇だったのです。
金子みすゞさんの「お仏壇」という詩には、
「朝と晩とにおばあさま、いつもお燈明あげるのよ。
なかはすつかり黄金だから、御殿のやうに、かがやくの」
とあります。昔の人は、お仏壇を中心に、お仏壇の光に照らされて生きておられたのです。ところが近頃は、自分を中心に、自分を輝かせようという時代ですから、生活が明るくなるほどに、照らしてくださるお仏壇の光が見えなくなり、気がつけば家の中で一番暗く、恐ろしい場所になってしまいました。
しかし、照らされるという経験は、実は大切なことなのです。照らされるからこそ、自分の影(陰)が見えてくる。陰とは、「陽の当たらぬ場所」「見えない部分」「表面に出ない部分」のこと。それは、私が気づかない部分であり、同時に目を背けてきた弱い部分、愚かな部分でもあります。でも、陰を抱えていることを知らされるからこそ、それでも生かされ、許され、支えられているという「お陰さま」の世界との出遇いが開かれるのです。
昔の人たちは、「陰」という字に、わざわざ「お」と「さま」という尊敬の言葉をつけられました。それは、私の目には見えない「陰の世界」があることに気づかれたからでしょう。その世界が私を包み、支え、生かしていてくださることに、目覚められたからなのです。
他にも「お疲れさま」「ご苦労さま」「ご馳走さま」という言葉がありますよね。あなたの「疲れ」や「苦労」によって、この私が生かされている。たくさんの方々が走り回って(馳走)くださったことで、ご飯をいただくことができた。そんな目には見えない世界のはたらきに、敬いの心で「お」と「様」をつける。こういう世界に対する敬意は、照らされる経験がなければ、わからないのではないかと思うのです。
照らされてこそ、初めて見えてくる世界があり、自分を輝かせようとするほどに、見えなくなることがあるのです。現代社会に生きる私たちは、照らされる中で自分を振り返ることを、忘れているのではないでしょうか。
阿弥陀様に手を合わせ、その光に照らされて、我が身を振り返る。その営みこそが、私の人生をより豊かなものにし、目には見えない世界との出遇いを開いてくださるのです。光輝く阿弥陀様を仰ぎながら、味わいたいものです。■
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