2023.2.11

前住職が、お浄土に往生させていただきました









 

極楽寺第二十二世住職池信宏が、お浄土に往生させていただきました。八十九年の生涯を皆様のお支えとお導きにより送らせていただいたことを、厚く御礼申し上げます。

前住職は、昨年六月にすい臓癌の告知を受けましたが、本人は年齢と状況を考慮し「本格的な治療はしない」という判断をしました。それは、死を受け容れるということを意味します。勿論、年齢的な覚悟はあったでしょうが、その淡々と且つ毅然とした態度には、息子ながら「大したものだ」と感心させられたものでした。

その後、大きな支障もなく日常生活を送っていましたが、十一月半ばから病状が急速に悪化し、十二月二十七日お浄土へと旅立ちました。多くの方々のご支援と様々な機縁に偶々恵まれて、最後まで自宅で過ごし、家族で看取ることができました。有り難いことだったと思います。私にとっても、本当に大切な時間となりました。

仏法では常々、人は必ず老い、病み、死んでいかなくてはならないと説かれます。その厳粛な事実を、身をもって示してくれました。身体の向きを変えるだけでも、人の手を借りなくてはならない。下の世話もしてもらわなくてはならない。それは歳を重ねた先の、私の姿でもあるのだと突きつけられました。一般的に見れば、惨めな姿なのかもしれません。しかし、そんな老いや病いの現実も、やはり淡々と受け容れ感謝しながら生き抜く前住職の姿には、ただただ頭が下がる思いがしました。

ある時前住職は、半ば朦朧とした中でこうつぶやきました。「臨終の良し悪しを問わず」と。その言葉には、「どんな私であっても、どんないのちの終わり方であっても、阿弥陀様は決して見捨てることなく、抱きとってくださる」という確かさが感じられました。前住職が、死や老いや病いをそのままに受け容れられたのは、阿弥陀様のはたらきに支えられ、お育ての中にあったからなのです。確かな拠りどころと出遇えた人こそが、人生を確かに歩むことができるのだと、その生き様を通して教えてくれました。

また、私の子どもたちがよく世話をし、最後には湯かんまでしてくれました。その営みを通して、子どもたちが明らかに成長していったのです。それは前住職が、病床にありながらも、意識を失っても、この世のいのち尽きてまでも、育ててくれていたのだと思います。人は、生きている間だけがすべてではない。そうも実感させられました。そして私は、今の方が前住職を身近に感じています。











 

前住職は、田布施町真光寺の四男として生まれ、結婚を機に極楽寺に入寺。日本通運勤務、山口龍谷高校教諭を経て、1973(昭和48)年に極楽寺住職を継職します。

「ご院主さん」、「園長先生」(野波瀬保育所・中央保育所園長)、「隊長」(ボーイスカウト三隅第一団隊長)、「自治会長」(野波瀬自治会長)など、前住職には多くの呼び名がありました。また、三隅町の教育委員長・調停委員・社会教育委員、長門市保護司会会長も務めました。それだけ多くの人と関わり、お育てをいただいた人生だったと思います。

住職としては、1982(昭和57)年に本堂修復工事、2000(平成12)年には庫裏新築工事という大事業に取り組みました。これらもまた、ご門徒の皆様の大きなご協力に支えられたものでした。

ボーイスカウトだけではなく、子ども会や仏教青年会などの活動にも力を入れ、何よりそれらの活動を写真に収め、丁寧に整理していました。その写真は、現在「極楽寺アーカイブス」として、毎年少しずつ本堂に掲示しています。お寺の、そしてご門徒の歴史を今に残す、極楽寺の宝となっています。

前住職が積み重ねてきた歴史と信頼の上に、今の極楽寺があります。その歩みは、ご門徒や地域の人々に支えられ、何より阿弥陀様のはたらきに支えられたものでした。前住職は、皆様と共に、阿弥陀様と共に人生を生き切り、お浄土へと往生させていただいたのです。そして今もまた、仏様と成って私たちを導いてくれています。

皆様、前住職と共に生きてくださり、厚く感謝申し上げます。そして、これからも遺された私共を、お支えいただければと思います。本当に、本当に有難うございました。



極楽寺第二十三世住職 池信秀見