野波瀬の極楽寺さまの本堂の向拝には、大きな竜の彫物がある。長さはほぼ三間(約六m)。一本の木から彫りだした見事なものじゃ。お堂は天保元年(一八三〇年)の建物で、よほどの名人がつくったらしい。
昭和五十五年にお屋根のふきかえがあった。その時、向拝の飾り斗組の裏にかきつけた歌などが、ちょうど百五十年ぶりに見つかった。そこで本堂と竜の話をしよう。
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今からざっと百六十年むかし。極楽寺さまの門徒総代や世話役が集まってご相談。
お堂は百二十年あまり経って、いたみもひどうなった。世の中が落ちついている間に建てかえようではないか。裏の山を掘って、境内地を埋めだそう。石垣は野波瀬の石屋新三郎が仲々の名人じゃ。あれにたのもう。幸島のたぶの大木も払下げをお願いしようではないか。
豊原の庄屋、勝屋治郎左エ門さんが殊のほか熱心じゃったそうな。話がまとまり、お上のお許しがでると、野波瀬の門徒衆は、幸島付近の海中から大きな石をひろいあげ、舟で運んだ。農家の門徒衆は鍬をふるい土を運んだ。石垣はいまだに崩れがない。
さて、阿川(豊北町)の殿さまの家来には、武士で宮寺の大工が多かった。なかでも野村和太左エ門重信という人は彫刻が得意な名大工の評判。和風という雅名で歌もよむ。だが十里も離れた野波瀬へ来てもらえようか。とにかくお願いにゆこう。
門徒衆の熱意に動かされ、老大工が弟子をつれてやって来た。大きな材が運ばれる。板もたる木も鋸でひく。手間と根気と人数の大仕事。門徒衆の労力奉仕の声がにぎわう。
仕事衆の寝泊りと炊きだしのため、庫裡の台所が新しくなった。晩には生きのよい魚と地酒がふるまわれる。
新かまの 庵にまるねや ひじまくら 和風
阿川の大工、野村和太左エ門重信 七十三歳。多年みがいた技量をかたむけ、今生最後の仕事じゃ。わしは竜を彫る。石段をあがれば先ず向拝が見えるはず。そこへ仏法を護る竜を彫る。
花に来て 姿はうつくし 秋の蝶 七十三翁
明日をも知れぬ老いの身。旅のわびしさ。なれど門徒衆は賞めはげましてくれる。やはりお寺は花じゃ。
鶯の 経よみそうな 小春かな 和風
のどかな小春日和。「法を聞けよ」と鳴くという。鶯よ。ここは安住の地じゃ。
文政十二年 丑の菊月。竜も彫り上がった。棟上げの日も近い。よい仕事をさせてもらった。仏さまのおかげじゃ。
この水の流れに浮かぶ 末の世につげばやおかん
野波瀬なる 堂古山に残す言の葉
その翌年、天保元年、本堂は落成した。だが、その夏以来数年間、風水害が続き村中が難儀した。つかの間のよい時期じゃった。ご縁が熟してお堂ができたのじゃろう。
野波瀬 池信宏證
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