一、はじめに



長門市三隅二条窪 楫取家旧宅跡
県道新設のため分断された




 元埼玉県立図書館長の韮塚一三郎著『関東を拓く二人の賢者―楫取素彦と小野島行薫』(昭和六十二年 鰍ウきたま出版会発行)の204頁に、寿子夫人について次の記述がある。

   ―関東真宗開教のルーツ 二条窪―
「素彦は、明治維新が成ると、中央を去って、帰農の志を抱き、山口県三隅村二条窪の桜楓山荘に棲んだ。これは、同じく長州でも伊藤や木戸と相容れなかったためだといわれている。寿子は妙好人だったから、自宅に近い、村の中央の地に小堂を建てて、毎月二回、この地の極楽寺などの僧を招いて、法話を聴かせた。この僧は、極楽寺の第十七世で蒙照といい、明治七年の暮には上京して、島地黙雷の世話で大教院に入ったほどの人だったから、僧蒙照の説教と、寿子の篤信とが相俟って、これまで遊びに耽っていた若者もよく働くようになり、村民の荒々しい気風も一変するようになった。そのため小堂での法話は永く村の定式となり、今日に及んでいるという。現在もなお、寿子が書き送った書がこの極楽寺に残っているとのことである。いずれにせよ、寿子が村民と膝を交えて読経し、また法話に聴きいっていた姿は、村民を動かしてやまないものがあったであろう。やはり、真宗は「聞の宗教」であることをおもうと、その感が深い。
      
(池信大融『楫取寿子女史のこと』極楽寺寺報清光¨o,12―17)
 こうみてくると、二条窪は、寿子にとっては、関東開教のルーツともいうべき地といえよう。」

 

 この文は、極楽寺で門信徒を対象に年数回発行していた伝道広報誌『清光』の第12号(昭和三十八年十月)から第17号(昭和四十年八月)に極楽寺住職池信大融(昭和五十三年七十才で没)が執筆連載した信の香り=u楫取寿子女子のこと」の内容などを要約したものである。
 実は、この『関東を拓く二人の賢者』を読まれた楫取素彦没後百年顕彰会の上山忠男会長が、平成二十二年歳末に「清光誌の原文を読みたい」との意向を電話されたので、関係資料を送付したことから翌二月には調査のために三隅へ来訪されたりして、今回の記念誌への執筆依頼をいただくことになった。
 同じような動機から群馬県前橋市の清光寺さま(寿子夫人発願建立の本願寺説教所が前身の寺)や熊谷市の弘教寺さまなどとの交流のご縁ができて二十数年になるが、その後特に新しい史実が発見されたわけではないので、補説といった感じで筆を執らせていただくことにした。




二、楫取寿子女史のこと(一)