十、小野島行薫の登用



小野島行薫




 小野島行薫は山口県田布施町麻郷の出身(弘化四年(一八四七)生~昭和二年(一九二七)八十才死去)で幼時から仏法の縁の深い家庭に育った。『光尊上人血涙記』418頁に関東開教主任登用の事情を次のように記述している。

「小野島はもと俗子で、金山仏乗の弟子となり、宗学一通りの心得あり、白石照山、草場船山等の碩学について漢学を修め、且つ説教は仏乗の仕込みで名談家である。所謂三拍子揃った俊才である。
 それのみならず世才と弁才は天禀の特徴を具えて居る。この二才を前の三拍子に合算して五拍子となる調法な男である。
 たまたま青雲の志を起して大隈重信の部下となり、還俗して大蔵省に職を奉じていた。彼こそ適材適所であるから了忠に推薦者になってくれと金山仏乗から持ち込まれて引請け、直ちに電報で彼を呼び寄せた。
 かねて県令夫妻にその意を通じ、県令の官舎に県官六七人を招き、一席講演を開き彼の弁舌を試みた。
 奥の一室は上人の座所、講演の座席には県令夫妻を始め官吏その他、青年の彼小野島は一向平気で席上に起立した。
「只今到着いたしたばかりの処、不意うちの講演、何等考案する猶予がありませんから、突嗟の思いつきで―人間の四恩―という事についてお話しを申し上げる。」
と冒頭して快弁を振ったが、仲々手に入ったものである。説くところ平易、語路は整然、見事な出来であった。
 一同満足、殊に県令夫妻は大喜悦、是非この青年をという話で、金山も大いに安心し即時僧籍復帰を許され採用の儀と成った。」
                     (明治八年(一八七五)行薫二十八才)





 

十一、開教は至難の事業 明如上人の支援 夫人の念願成就