小野島行薫師の布教は、真宗寺院が極めて少ない地であるので、他宗の寺院を借りて行ない、寿子夫人は県の官吏とその夫人、地元の有力者を誘って会場に参詣したが、一般住民は数人だけという惨めさが続いたという。
関係者の苦渋の日が続いたが決意は固く、明如上人からも懇情の籠った諭示があったことが前記同書419頁に述べ、次のように結んでいる。(明如上人(一八五〇~一九〇三)は、明治八年二十六才)
「その甲斐あってか僅かに三年の後/宗主が北越大巡教の途次、その開教地を通過せられた明治十年(一八七七)の冬には、/眞宗本派説教所と大看板を掲げた堂々たるものが十ケ所にあった。これで上州一円は開教成就したのである。」
上州の開教は至難の事業で忍苦と困苦の積み重ねであったようであるが、明治九年(一八七六)二月、真宗教会酬恩社を結成するに至った。酬恩社の会員は、宗派を問わず、酬恩社が掲げる四恩の重大なることを説き、報恩感謝の気風を高めることに重きをおいた布教方法をとったので、会員は急増し、運動を普及させることができたようである。
酬恩社の活動が着実に展開しはじめた明治十年四月。寿子女史は軽い中風症を発病。しかし、女史の願いは明治十二年十二月、前橋に本願寺説教所が設立認可され、新規に本堂建物建築工事が始まったことによって実現した。このことについて山口県三隅出身で群馬県庁奉職中の中原復亮氏が、本願寺執行の島地黙雷師との交渉に当っていることは、〝信の香り〟にも述べてある。
大正九年(一九二〇)に清光寺という寺号を公称したこの本願寺出張説教所の完成入仏式は明治十四年四月。完成を目前にしてその年の一月三十日、寿子夫人は東京の本邸で病没。天保十年(一八三九)生れの四十三才だった。
酬恩社はその後、前橋の本願寺主張説教所を拠点として、群馬・埼玉県で酬恩社の伝道活動がすすめられ、急な勢いで全国に拡がって行ったが、政府が政治結社を制限する目的で集会条例を発布したことにならって、本願寺でも酬恩社のような全国的組織を許さない動きが強くなり、明治十三年(一八八〇)秋、一府県一教会という教会条例を制定した。
明如上人の意に反した決定といわれるが、この結果、酬恩社は明如上人の承認を得て、明治十四年(一八八一)二月二十日解散式を挙げ、結成五年で終わりを告げた。
しかし、清光寺をはじめ酬恩社ゆかりの寺院や教会が、今もなお真宗寺院として護持され活動を続けている。清光寺では楫取寿子夫人を清光寺の発願人とし、真宗関東開教のルーツは三隅・二条窪にあるとして、その聖行を讃えている。
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