二、楫取寿子女史のこと(一)


  

楫取寿子



 妙好人(真宗の篤信者への尊称)楫取希子(注)のことは、明治三十二年に京都市の興教書院から発刊された浜口恵璋著『新妙好人伝』によって浄土真宗本願寺派関係に広まり、その後も各種の出版物に引用されたり、布教で紹介されたりして広く知られることとなった。
 (注)夫人の名は、杉氏略系図には「寿子」となっている。「希子」「久子」と書いたものもある。
 寿子夫人の遺徳追慕の意味では、この『新妙好人伝』をベースにして、〝信の香り〟という視点で書かれた極楽寺寺報『清光誌』の「楫取寿子女史のこと」の文が適わしいと思われるので、長文になるが次に転載する 



『信の香り~ 楫取寿子女史のこと』池信大融
(極楽寺寺報〝清光〟より転載)

「妙好人 楫取寿子の生いたち」
 明治維新の志士、吉田松陰先生のことは誰でも知っているが、先生のお妹に当たる寿子さんが、楫取家に嫁し三隅二条窪に住んで居られたことは、この地方の人にもあまり知られていない。しかも、この方が、極めて聡明な女丈夫である上に、真宗の信仰に篤く、常に法義の弘通に努め、教えを実践せられた妙好人であることを知っている人は、極めて少ないのではなかろうか。
 藤 秀璻先生(元広島文理大学講師)の著書「純情の人々」には、鎌倉時代から現代まで七百余年間、日本に生れて、信仰篤く、善行美徳を残した妙好人六十五人を選び出して、その偉徳を讃嘆して居られる。その中の、西行法師、良寛上人、庄松同行等の人々と肩をならべて、楫取寿子女史が挙げられているのを見ても、その清浄香潔な人柄と万人渇仰の行蹟は、弘く、永く世に伝えられるべきものであろう。
 私は、かねて寿子女史を、念仏者としてその芳蹟を顕彰したいという念願をもって、三隅在住時代を調査研究したいと思っているが、性来愚鈍の上に、何分、百年の歳月を経て、まとまった記録もないので、その手がかりを得ることさえ困難なうちに、むなしく月日を経過していた。ところが、最近、当極楽寺の古い文書を整理しているとき、はからずも当寺第十七世住職蒙照と楫取寿子女史の間に、仏縁を通して交遊があったことを示す貴重な資料を発見した。まことに不可思議な因縁に驚くとともに、あらためて、この課題にとりくみたいという強い意欲が湧いてきた。
 まず、寿子女史の生い立ちからはじめることにする。女史は、萩毛利藩の士、杉百合之助常道の二女として、天保十年(一八三九年)に生れた。母瀧子さんは藩士村田右中の娘で、兄に勤王の志士、民治、松陰の二先生を持ち、他に一姉、二妹、一弟の七人兄妹である。時は幕末騒然の世相であり、殊に松陰先生という憂国の士を出した家であるだけに、幼時からたびたび、非常な場面に遭遇し、精神的訓化を受けたことも多かったと思われる。
 母堂、瀧子さんは、元来聡明な上に、豊かな教養もあり、早くから仏縁に恵まれ、真宗の法義を仰信して居られたようである。晩年に、真宗の高徳、島地、大洲、赤松等の諸師の教えを受けられ、明治二十三年、八十四才の高齢で往生せられたが、葬儀に際し、時の本願寺法主光尊上人から、特に使僧が派遣せられ、法名を実成院釈智覚乗蓮大姉と諡られ、
   国のため つくしてのみか 伝えつる
    みのりの道は ふみもたがえず
と、お歌まで贈られたほどであるから、その念仏者としての一面は、想像するに難くない。寿子女史の宗教的感情は、すでに幼時、母堂の身業感化により芽生えたものであろう。

 僅か十六才で、同藩の楫取素彦氏に嫁がれたが、時あたかも、幕末物騒の世の中で、勤王、佐幕の二党が鎬を削り、萩藩にもおのづから、そうした空気が漂い、夫君素彦氏は尊王党の一人として、常に東西に奔走し、幾度か身を危険にさらし、家に在ることも少なかった。すなわち、元治元年には、讒言により入牢の身となり、寿子夫人が甲斐々々しくも風雪をおかし、深夜、牢獄を訪うて食物を運ぶ等のこともあり、また、慶応二年には、幕府が大挙して長州征伐に乗り出し、先ず、毛利公を廣島に召喚したが、藩公は病気と称して、家老宍戸氏を正使に、その副使として楫取氏が遣わされた。幕府はこの二人を囚えて還さないため、一藩の騒動は一方ならぬものがあった。こんな時にも、女史は武門の常と覚悟して、少しも乱れることなく、難局を乗り越え、藩公から恩賞を賜ったとも伝えられている。(引用続く)





三、楫取寿子女史のこと(二)