三、楫取寿子女史のこと(二)




野波瀬極楽寺第十七代住職蒙照に贈られた
寿子夫人自筆の筆跡




「二条窪で法座を開く」

 維新の大業がなり、世は明治に移って間もない頃、楫取家は、二条窪(大津郡二条久保村と称した)に居を構えられた。寿子女史が三十才前後の頃であったと思われる。それより、夫君素彦氏が熊谷県(後の群馬県)の県令に任ぜられ、同伴赴任せられるまで、数年間、この地に居住せられ、まことに、美わしく、法味愛楽の日々を送られたようである。
 当時、幕末騒擾の余燼未だ治まらず、村人にややもすれば不穏の空気さえ見られるので、寿子女史は、この際、自分が信奉する真宗の教えを聞信させることが、平和への道であると考え、自宅に近く、郷のほぼ中心にあたる地を選んで、小さい堂宇を建て、毎月二回、男女の集合をはかり、僧侶を招いて、法座を開くことにした。これにより、村内の気風が一変し、大いに感化を及ぼしたと伝えられている。

 私は、かつて、二条窪を訪れ、楫取家の住居の跡に立ち、付近の風景を眺めながら、独りしずかに九十年の昔を偲んだことがある。
 寿子女史の居られた住家は、すでに数十年前、撤去せられて後形もないが、沓脱石らしい大きい岩石が二基と樹齢百年を越えるかと思われる紅葉と桜の大木が、わずかに昔を語っていた。ここから約二百メートル南に、山を背にして、村人が観音堂と称する赤瓦屋根の小さい堂宇がある。
 古老の話によれば、現在の堂は、四、五十年前に改築したもので、その以前には、同じ大きさの萱葺の堂があったそうである。これが寿子女史の建立された聞法道場であったものと思われる。中に入ると、木像の阿弥陀如来が安置されてあった。
 この堂宇で、どんな型の法莚が行われたか知ることはできないが、毎度、真宗の僧侶が招かれ、教法を説き、寿子女史が村人と共に聴聞せられたのであろう。極楽寺第十七代住職 蒙照も幾度か足を運んで、この席につらなり、法を説いて、女史の聖行をたすけ、法味愛楽の上から交誼を厚うしていたようである。


「法悦の歌の書」

 楫取寿子女史が当寺に送った書き物が一つ残っている。書き物といっても、楮紙一枚に和歌が四首書いてあるに過ぎないが、女史の自筆であるから今も大切にしている。この書き物の包装紙の表面に
  のばせ
     極楽寺様        楫取
と認めてあるから、女史が二條窪に住んで居られた頃、当寺住職蒙照に贈ったものであろうと思われる。筆跡は極めて女らしく、しかも達筆で、女史の教養と人柄を想像させるものがある。
 さて、その四首の和歌は、何れも女史の自作ではなく、読書や聴聞の上で自分が感動されたものの中から、抜萃されたもののようである。まず、そのまま書き写すことにする。









   旗本一柳とよ姫の辞世に
いざさらば 浮世を捨てて法りの船 さとりの岸に 今日やつくらん

    同行の口すさみに
かんしゃくは 持って生れし鈴の玉  あたりさわりに なるぞかなしき
その中に 他力の信の玉入れて またなりもどる 弥陀の称名
(註)この二首は『妙好人伝』に「石見の国柚木の長三郎の口すさみに」として出ている。

   女の身の弥陀の本願にあえる嬉しさは
   古歌に
 雨露に たたかれてこそ 紅葉ばの
 にしきをかざる 秋となりけり

 四首の和歌は、今更解説を要しないだろう。何れも、真宗安心の味わいを詠んだものである。
 これがいかなる動機で、当寺住職に書き贈られたのであろうか。蒙照住職から請うて書いてもらったのか。寿子女史が自発的に書かれたのか。その辺の消息は無論わからない。私の想像が許されるならば、二條窪におけるお講の後の座談の席で、両人の間に信仰の体験など語り合われ、この和歌が話題にのぼり「これはおもしろい、一つ書いて下さい」「ハイ 書きましょう」ということになったのだろうかと思う。
 私は、動機の如何よりも、これにより、その法筵の空気の清純さと寿子女史の聞法態度の立派さに心を打たれるのである。しかも、当時、寿子女史が三十才前後、蒙照住職がそれより二、三才若年であったことを思えば、全く頭の下がる思いさえするのである。

 寿子女史が、文才豊かであったことは、その遺言状(後に詳述したいと思っている)を見ても明らかである。それが、蒙照に贈った書き物の中に一言も自分の主張を書かず、ただ、古歌や同行の口ずさみのみ書いてある点は、極めて趣き深いことであると思う。すなわち、女史の宗教的態度は常に、聞く立場を堅持されていたのではないだろうか。とかく法筵の主催をしたり、世話をしたりする人の中には、聞く立場を逸脱して、聞かす立場、説く立場に廻る人が多い。浄土真宗は「聞の宗教」であり、聞く立場を離れて真宗の信心はない筈である。
 寿子女史が、二條窪の観音堂で、一文不知の凡夫になり切って、郷人と膝を並べ、つつましやかに聴聞していられる姿が、彷彿として眼に浮かぶような気がする。
 女史が後に、群馬県に赴き、本願寺のこの地方の開教に、外護の力を尽くされた報佛恩の土台は、実に二條窪で築かれたものといえるだろう。

                           (引用続く)



 

四、楫取寿子女史のこと(三)