旗本一柳とよ姫の辞世に
いざさらば 浮世を捨てて法りの船 さとりの岸に 今日やつくらん
同行の口すさみに
かんしゃくは 持って生れし鈴の玉 あたりさわりに なるぞかなしき
その中に 他力の信の玉入れて またなりもどる 弥陀の称名
(註)この二首は『妙好人伝』に「石見の国柚木の長三郎の口すさみに」として出ている。
女の身の弥陀の本願にあえる嬉しさは
古歌に
雨露に たたかれてこそ 紅葉ばの
にしきをかざる 秋となりけり
四首の和歌は、今更解説を要しないだろう。何れも、真宗安心の味わいを詠んだものである。
これがいかなる動機で、当寺住職に書き贈られたのであろうか。蒙照住職から請うて書いてもらったのか。寿子女史が自発的に書かれたのか。その辺の消息は無論わからない。私の想像が許されるならば、二條窪におけるお講の後の座談の席で、両人の間に信仰の体験など語り合われ、この和歌が話題にのぼり「これはおもしろい、一つ書いて下さい」「ハイ 書きましょう」ということになったのだろうかと思う。
私は、動機の如何よりも、これにより、その法筵の空気の清純さと寿子女史の聞法態度の立派さに心を打たれるのである。しかも、当時、寿子女史が三十才前後、蒙照住職がそれより二、三才若年であったことを思えば、全く頭の下がる思いさえするのである。
寿子女史が、文才豊かであったことは、その遺言状(後に詳述したいと思っている)を見ても明らかである。それが、蒙照に贈った書き物の中に一言も自分の主張を書かず、ただ、古歌や同行の口ずさみのみ書いてある点は、極めて趣き深いことであると思う。すなわち、女史の宗教的態度は常に、聞く立場を堅持されていたのではないだろうか。とかく法筵の主催をしたり、世話をしたりする人の中には、聞く立場を逸脱して、聞かす立場、説く立場に廻る人が多い。浄土真宗は「聞の宗教」であり、聞く立場を離れて真宗の信心はない筈である。
寿子女史が、二條窪の観音堂で、一文不知の凡夫になり切って、郷人と膝を並べ、つつましやかに聴聞していられる姿が、彷彿として眼に浮かぶような気がする。
女史が後に、群馬県に赴き、本願寺のこの地方の開教に、外護の力を尽くされた報佛恩の土台は、実に二條窪で築かれたものといえるだろう。
(引用続く)
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